大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第13回*   (H24.11.30 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は九州大学医学部長 片野 光男 先生です。
  『背骨を鍛え、志高く「時の流れに身を任せ」』

      
        九州大学大学院医学研究院長・医学部長 片野 光男 (腫瘍制御学分野教授) 
        

カリフォルニア大学・ロサンゼルス校(UCLA)留学時代(1982年:33歳):借家の前の庭で家族と

 

 敢えて文系・理系と分類するとすれば、私は文系人間でしょう。したがって、これからの話は、60年の人生を歩んだ今、面白いように手を加えた個所もありますので話半分といった位に考え、何か参考になることがあればご利用いただければ幸いです。
 先ずは、何故医学部を選んだかという話です。父は義理・人情に厚い人柄でありながら心静かな人で心より尊敬しており、小学生頃には父が「何を好み何を嫌うか」が私の一大関心事となっていました。父は政治家が嫌いで、教師か医者が好みだなと漠然と考えていました。私が、中学生になる頃には既に兄は教師として働いていました。結果として、私は医者になったのかもしれません。医療は文系だと思っていますので医者になることに大きな躊躇はありませんでした。問題は、大学入試の仕組み上、医学部が理系に分類されていることでした。私は、この問題をクリアするために高校では全科目を満遍なく学ぶことに決めました。つまり、社会の理屈が自分の理屈に合わないので、自分なりの工夫をしたということになるでしょうか。この工夫も両親から頂いたもの(気質や体力)を使ったに過ぎないのですが。一人ひとり違うと思いますが、私は、何かを決断する時、自分より誰かをイメージした方が力を発揮できるようです。目を凝らして尊敬できる人を見つけることです。
 次は、どうして免疫学を基盤とした外科医の道を歩むことになったかという話です。大学入学当時(昭和43年)、大学は学園紛争まっただ中で、大学生協は「青春とはなんだ」といった類の書籍で占められ、医学関係の教科書などは恥ずかしそうに片隅に積まれている状態でした。そんな中、講義の中で「免疫学」という新たな医学分野に遭遇しました。学問としては誕生したてで、「禁止クローン」や「免疫監視」といった文学的仮説に支えられていました。そのためか、「自己免疫疾患」を「自己満足疾患」などと揶揄する風潮もありました。しかし、文系人間である私には実に心地よい響きを持った学問として飛び込んできました。これからの学問だということも魅力的でした。将来、どのような医者になるにしても、学問の基本(背骨)は「免疫学」にしようと決めました。大学4年生の夏頃だったと思います。こうして、5年生の夏休みには膠原病患者さん(免疫病だといわれていました)が多く入院していた九大温泉治療学研究所(現在の九大別府病院)の内科で数週間研修体験(患者さんの末梢血中のLE細胞を顕微鏡下に探す)をさせていただきました。この経験が背骨作りの第一歩となりました。途中の経過は省きますが外科医になることにしました。つまり、6年生になって、免疫学を背骨に持つ外科医として歩むことに決めました。医者の卵である私にとっては、免疫学と外科がどのように結びつくかは大した問題ではなく、背骨を見つけたことが喜びでした。何科に進むか考えるように、学生の間に、寄って立つところの自分の学門(背骨)を探すと良いと思います。医者を選んだ以上、常に学び続けることは当然の義務ですから。
 背骨を見つけたら、次は背骨を鍛える必要があります。当時(昭和50年頃)の外科病棟には、癌性腹膜炎患者さん達が数名おられました。これら患者さんは特に何の治療もないまま次第に病棟の奥へ奥へと移ってゆき最後にはお亡くなりになる方も少なくありませんでした。医者の卵としては、何故このようなことが外科病棟で起きるのか不思議で、このことが心から離れないようになっていました。話を聞いてみると、癌性腹膜炎は治療手段のない病態であることがわかりました。つまり、癌性腹膜炎は治療の外に置かれた病態であり、内科にいるか外科にいるかは大きな問題ではなかったわけです。運の良いことに、当時の外科教室に、末期がん患者さん達にBCG免疫療法という我が国初の免疫療法を始めた40歳そこそこの若い先生(鳥巣要道先生)が「臨床免疫研究室」というユニークな研究室を開いておられました。当時は、研修期間が終えると一定期間研究するのが当然かつ権利だと思っていましたので、研究生として臨床免疫研究室に入り、気にかかっていた癌性腹膜炎を免疫学的に研究することにしたわけです。その結果、「癌性腹膜炎に対する溶連菌(薬剤名:ピシバニール)腹腔内投与療法」を開発する機会に巡り合い、10数年後には治療法として保険適応を得ることになりました。当時、我々は留学も義務であり権利であると漠然と考えていました。そこで、新設された佐賀医科大学外科へ移るのを機にUCLAの外科研究室へ留学し、腫瘍免疫の基礎を一から学び直すことにしました。留学の最大の成果は、Morton先生の次の一言でした。「自分の理想はAcademic Surgeonになることだ」。ここでは、「癌抗原に対するヒト型モノクロナル抗体の作成と臨床応用」にかかわりました。成果は、当時極めて稀であったNHKテレビのニュースで取り上げられました。この出来事は、さらなる喜びを運んできました(?)。銀座のクラブを訪れた時、ホステスさんから「あなたテレビに出てたでしょう。確か片野さん、、、」と。まだまだ話は続くのですが、紙面の都合と、ここまでが私のピークだったようなので、この辺で話は止めます。こうして、手術不能の「癌性腹膜炎治療」をライフワークとする外科医として歩むことになってゆくわけです。繰り返します。医者を志したからには、病める人々の道具となるための背骨を持ち、より良い道具となるために背骨を鍛え続け、時代がどう変わろうと、どのような不都合なことが起きようと「時の流れに身を任せる」ことのできる高い志を持って歩いてゆきたいものです。


【私の履歴書】 

昭和43年(1968) 九州大学医学部入学
昭和49年(1974) 同上卒業 
昭和49年(1974) 九州大学医学部第一外科入局 
昭和53年(1978) 九州大学医学部第一外科・研究生
昭和56年(1981) 佐賀医科大学消化器外科・助手
昭和56年(1981) 米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)留学
昭和58年(1983) 佐賀医科大学消化器外科(復職)
平成11年(1999) 九州大学大学院医学系研究科(平成12年医学研究院に改組)腫瘍制御学分野・教授
平成15年(2003) 医学研究院先端医療医学部門・部門長
平成19年(2007) 医学研究院・副研究院長
平成20年(2008)  九州大学病院・病院長補佐 
平成23年(2011) 医学研究院長・医学部長
            現在に至る