大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第25回*   (H26.9.30 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は広島大学医学部長の 木原 康樹 先生です。
     
                     広島大学医学部長 木原 康樹(循環器内科学教授)
        
 

筆者(左上)が裏方を務めた第3回Antwerp-La Jolla-Kyoto Research Conference on Cardiac Function(1995年京都)

 
 無秩序でなにひとつ体系的な智慧が身につかない京都大学はもう懲り懲りだと思い、卒業と同時に天理よろづ相談所病院へ内科系レジデントとして就職した。今でこそ知名度を得た天理のレジデント制度であるが、当時は卒後臨床研修に興味を抱くものは少なく、発足後わずか数年の未完のシステムはこれまた無秩序の只中を漂っていた。ただ医学全体を俯瞰する医師を育成するとの理想は高く、従来の医局研修に飽き足らない変わり者が学閥を越えて集まっていた。安価な年俸制で雇用されたレジデントは同じ病院内にあって大学医局派遣医とは異なり、何時間働こうが、何日当直をしようが、びた一文追加報酬にはありつけない仕組みで、いわば置屋であった。コメディカルには「レジデントの先生」と呼ばれた。この正規医師とレジデント医師という二重構造化した病院で生き抜くには、己の医師としての技量を磨くしかなかった。
 臨床は暇ではなかった。総合病棟勤務の際には、3-4名のジュニアレジデントで胃がん、急性肝炎、肝臓がん、肺炎、肺がん、悪性リンパ腫、脳梗塞、心不全、僧帽弁膜症、肝性昏睡、糖尿病性壊疽、亜急性甲状腺炎、乳がん術後、大腿骨頭骨折、SLE、関節リウマチ、多発性硬化症、不明熱、など多彩な患者80名余りを一挙に受け持ち、毎週内科7科と腹部外科、整形外科の部長回診にアテンドをした。陽の高い間に宿舎に帰ったのは、マイコプラズマ肺炎を罹って40度の発熱を生じた時だけであった。しかし、そのこと自体は大したことではないであろう。

 今更忘れがたいことは、レジデント医局に戻ると先輩も、同級も、後輩も自然体で成書に向かって勉強をしていたことである。大北裕先輩(現、神戸大学心臓血管外科主任教授)は患者が退院するまでに、疾患に関するモノグラムを1冊読み上げていた。亀崎洋先輩(現、市立長浜病院副院長)は、どんな些細なことを尋ねても、「それは、ハリソンの第何章何ページに、それからセシルの何ページに書いてある」と諳んじていた。滋野長平先輩(現、大和高田市立病院副院長)は、「ハーバード大学の連中はこう言っているが、最近ホプキンス大学ではこういう意見がでているらしい」と比較相対論に誘導してくれた。山本徹先輩(現、大阪府済生会中津病院院長補佐)は、「あれも読んだ、これも読んだ、もう暇でしょうがない!」と常時ぼやいていたので、ヒマ本というニックネームがついた。もちろん和書や翻訳書の少ない時代である。コンピュータで検索したり論文のコピーをリアルタイムに入手したりできる訳でもなかった。奈良医大前に本店がある栗田書店の御用聞きが毎日のように注文を取りにきた。栗田に100万円以上の借金があるのが「まあまあのレジデント」の証となった。狭い医局は本と智慧で溢れていた。
 こうなると「レジデントの先生」は、少なくともコメディカルの間では半人前から一人前以上に格を上げた。夜中でもいる、まっすぐに駆けつける、的確な指示を出す、最後まで見届ける、だから緊急電話はレジデント医局に集中した。その中で私たちも経験を積み、短期間に珍しい疾患を多く診た。ホジキン氏病を合併したATL、ウェーバー・クリスチャン病、今ではコモンになったPMR、ヒビテン耐性セパチア菌血症、呼吸が停止しかけた破傷風、メチルドーパ誘発劇症溶血性貧血、ポートワイン尿を示す下半身熱傷の糖尿病、等々、大概患者の名前まで思い出すことができる。

 その後私は、秀でた指導者との出会いを得て、循環器内科学を自分のサブスペシャリティとして専攻することになるが、内科学あるいは医学全体を俯瞰しようとする医師としての基本は揺るいでいないように思う。ずいぶんと厳しい研修を与えていただいた天理病院指導医の先生方ではあるが、自分たちの職務を果たすことと徹底した議論に対峙すること以外には、ああしろこうしろは無かった。それは、自分が辟易として一旦は後にした京都大学もそうであった訳で、全くの「空」であったと思っていた都での6年間が単なる「真空」ではなかったことにやっと自分なりに気づかされたということに他ならない。構われないことと放置されることは異なる。どちらがより大人としての扱いかは自明であるが、それに目覚めるまでの夫々の時間を周囲はじっと待つ勇気と忍耐を要する。私自身の道のりを振り返り、それを成してくれた多くの人たちが居てくれたことにこの年でようやく思い至る。それを今の学生や研修医に与えられるかどうか、日々自問が続く。


【筆者略歴】
1979年  京都大学医学部卒業
1979-81年 天理よろづ相談所病院内科系レジデント 
1986-89年  ハーバード大学医学部内科部門心臓血管内科研究員 
1989-93年 富山医科薬科大学医学部第二内科助手 
1993-2005年  京都大学大学院医学研究科循環器内科学助手・講師 
2005-7年  神戸市立医療センター中央市民病院循環器内科部長 
2008年 広島大学大学院医歯薬学総合研究科循環器内科学教授 
2014年  広島大学医学部長 

京都大学医学博士、日本内科学会認定内科医・総合内科専門医、循環器専門医、超音波専門医・指導医、日本脈管学会専門医、Fellow, American College of Cardiology (FACC)、Fellow, American College of Physician (FACP)、Fellow, European Society of Cardiology (FESC)