大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第33回*   (H28.1.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は香川大学医学部長 今井田 克己 先生です。
 「プロフェッサーがヒヨコの頃」
                    
                                香川大学医学部長 今井田 克己(腫瘍病理学 教授)

        
 

留学中(1985年)の国際学会での発表

 

【タマゴからヒヨコへ】
 このコーナーはプロフェッサーがヒヨコの頃、ということですが、私の場合はヒヨコになる前の「タマゴ」からスタートさせて下さい。この場合のタマゴはもちろん医学生の頃、となります。名古屋市立大学医学部医学科への入学は1972年ですので、その頃は“MD-PhDコース” という制度はもちろんなく、2年間の教養課程の後に、キャンパスを移動していざ医学専門課程へというタイミングで、病理学教室の「学生研究員」になりました。これは、正式(公式)なものではなく、手を挙げて届け出を出すだけのものでしたが、当時4名の同級生が届け出を出しました。朝の病理標本検討会やCPCに、眠たい目をこすりながら参加し、病理標本を検討していく様子を体験することができました。
 たまたま入った病理学教室でしたが、そこには伊東信行先生(後に名古屋市立大学学長、そして日本癌学会総会の主催者)が着任しておられ、エネルギッシュな若い人材の多い教室をまとめられて、とても活発な研究組織としてスタートされた時期だったのは幸運でした。そこでは化学発癌の基礎的研究を精力的に進められており、私は動物実験を手伝わせていただき、研究なるものに携わっているのだという、何か漠然とした気持ちを持つことができました。今から思えば、まだ‘お手伝い’の領域でしたが、実に楽しい時期でした。
 医学科5年の9月に突然喀血し、結核を発症しました。幸い、1年の療養生活で完治しましたが、その時の1年間の入院生活の体験は、私にとって大きな出来事でした。入学時から一緒だったクラメートたちより1年遅れた卒業になりましたが、卒業後は同期生が2学年にわたり、普通の人の2倍の同期生を持つことになり、そのことが意外と重宝することになりました。
 卒業にあたり、病後の体力に自信がなかったため、臨床には進まず、引き続き病理学の大学院に進みました。そこでも化学発癌研究を進めることになり、ようやくヒヨコとなりました。
 大学院では、教室全体が大きな船が進んでいくような感じでしたので、自分だけ乗り遅れないようにするのが大変だったように思います。体力的に無理のないようにと選んだつもりだったのですが、その逆だったかな、と思う時もあるくらいに、毎日が忙しかったように思います。

【米国留学】
 無事に大学院を修了し、学位を取得後、アメリカミシガン州にあるMichigan Cancer Foundationに留学する機会を与えられ、2年6ヶ月の米国留学中に、環境化学物質による発癌研究を行うことができました。そこでのボスCharles M. King博士からは、研究面での指導を頂いたのはもちろんですが、科学者としての考え方や広い意味での異国の文化も教えていただき、貴重な体験ができました。その後も、公私に渡るおつきあいを継続しています。

【国立医薬品食品衛生研究所】
 帰国後は、東京の国立医薬品食品衛生研究所病理部の室長として赴任することになり、研究と厚生省(当時)の研究機関として行政に係る仕事に3年間従事しました。そこでは、化学物質の安全性評価、リスク評価の考え方、その手法を学び、その後の医薬品や食品の安全性、リスク評価の各種委員を遂行するための基礎を体得することができました。

【病理医として】
 国立医薬品食品衛生研究所から、再び大学に戻り、発癌研究を続けると同時に、名古屋市内の市立病院や市立施設の病理部長として、臨床の場での診断業務に携わりました。私の研究テーマである発癌研究と、臨床の場での病理医としてみるヒトの腫瘍性病変とを、直接的に結びつけることができました。

【医学部腫瘍病理学の教授として】
 2001年9月に現職の腫瘍病理学教授に就任してから15年になろうとしています。現在は、実験的肺発癌を研究テーマとして研究を進めるとともに、食品添加物などの安全性評価に関する研究やナノ物質などの安全性評価に関する研究を行っています。これらの研究をもとに、国の専門調査会の委員として各種化学物質の健康有害性評価を行い、国民のみなさんの健康維持に貢献していきたいと思っています。
 思い返しますと、ヒヨコ、特に生まれたてのヒヨコの頃に研究がスタートできるかどうか、自分の生涯の研究テーマに出合えるかどうかが、その後の研究生活の大きなポイントになっていたと思います。もう一つのポイントは、それを継続するということです。「継続は力なり」ということわざはまさに、そのとおりと実感しています。これまでの長い研究生活の中で、このままでいいのだろうか、この研究テーマを続けることが自分にとっていいのだろうか、との疑問が何度も湧いてきました。その時は何が正解で、どの道が間違っているのかはわからないと思いますが、継続をして初めてわかること、気づくことがあります。とりあえず続けること、これが重要なことだと思います。
 「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。「啐」はタマゴの内側からヒヨコが声を発して殻から抜け出ることを告げること、そして「啄」は親鳥が殻をつついてヒヨコが出るのを助けることですが、大切なことはこれらが「同時」に行われることです。タマゴの人たちは、ヒヨコになる日を楽しみに自ら精進し、その上で親鳥(教職員はじめ諸関係機関の人たち)の助けを借りつつ、勉学に、そして研究にもエネルギーを注いで行かれるよう望みます。親鳥たちはその期待を裏切らないと、私は確信しています。


【私の履歴書】

昭和54年 名古屋市立大学医学部卒業
昭和58年 名古屋市立大学大学院医学研究科博士課程修了
昭和58年 名古屋市立大学医学部 助手
昭和58年 Michigan Cancer Foundation(U.S.A.) 留学
昭和63年 国立衛生試験所 病理部 室長
平成 3年 名古屋市立大学医学部 講師
平成11年 名古屋市立大学医学部 助教授
平成13年 香川医科大学医学部第一病理学 教授
平成15年 (大学統合に伴う名称変更)香川大学医学部腫瘍病理学 教授
平成25年 香川大学医学部長