大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第36回*   (H28.8.19 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は浜松医科大学理事(教育・産学連携担当)・副学長 山本 清二 先生です。
                     
                         浜松医科大学理事(教育・産学連携担当)・副学長 山本 清二

        
 

留学先のラボで

 

臨床医が研究をやってみたいと思い始めた
 私は浜松医科大学医学部を1980年に卒業しました。1期生であった我々は、まず医師になって地域に恩返ししたいという想いで、大学の医局に入局し大部分の人が県内の病院で地域医療のため頑張りました。私もその例にもれず、大学の脳神経外科に入局、2年間の研修プログラムを経て、県内の市中病院に出ました。外来と病棟で患者さんを診て、手術に明け暮れる毎日で、脳神経外科専門医の試験にも合格し、やりがいのある充実した生活を送っていました。
 そんな中で、脳の神経細胞は血液の流れが途絶える(虚血という状態になる)とすぐに死んでしまうという事実と、そうなってからでは遅すぎるという悔しい想いから、何とかその病態と治療法を研究したいと考え、患者さんを診ることと並行して研究も行うために、大学の医局に帰る希望を出しました。機会があれば留学したいと思っていたのです。卒業して9年目のことでした。

本格的な研究に没頭した留学時代
 大学の医局に助手として戻り、臨床医として働きながら自分の興味ある領域の文献を読んで、自分が行きたいラボを探しました。その中で脳循環制御に関する多くの仕事をしておられた米国Cornell大学医学部のDonald J Reis教授の仕事は、自分にとって非常に新鮮で興味を惹かれました。脳は自分で自分の循環を制御しているといい、そのネットワークを電気刺激すると虚血性神経細胞死から神経細胞を守れるというものでした。Reis先生と親交があった群馬大学医学部生理学教室の三浦光彦教授にお願いして推薦状を書いていただき、Reis先生に手紙を書きました。「自分は臨床経験が豊富にあり、細かい顕微鏡手術が得意で動物モデルなど難しい手術ができる」と売り込んだ訳です。Reis先生から「来てもいいよ」という返事をもらった時に、飛び上がって喜んだことは今でも覚えています。そして1991年、卒後11年目に、子供2人の4人家族みんなで渡米し、New York、ManhattanのCornell大学医学部(New York Hospital)の研究室に入れてもらいました。
 Reis先生はCornell大学医学部卒業後には脳神経外科医になる希望も持っていた人で、脳神経外科から研究に来た私をかわいがってくださいました。厳しくやさしい人で、動物実験の注意事項、プレゼンテーションの仕方、学会発表のスライドの作り方に始まり、科学的な物の考え方など細かに指導してくださいました。それらは今でも私の学際的なバックボーンになっています。ある時データを見せて議論した時に”I believe you, but I doubt your data.”と言われ、実験結果を徹底的に検討することになり、そこから脳を電気刺激すると虚血性神経細胞死から神経細胞を守れるという現象のメカニズムに近づくことができ、新しいタンパクが誘導されるというその後の仕事につながる成果を得ることができました。
 2年間の留学中に、筆頭著者として2報の論文とNature他4報の共著を出すことができました。「脳梗塞の急性期には一酸化窒素(NO)が脳血流を保持し脳保護的に働いている」という実験的事実を、筆頭著者として世界で初めて報告しJournal of Cerebral Blood Flow and Metabolism(JCBFM)に掲載されたこの論文をもって、帰国後に博士号(医学博士)を取得しています。論文がacceptされた時の興奮は今でも昨日のことのようです。嬉しくて地下鉄に乗らずManhattanの街中をずっと歩いて帰ったのを覚えています。いつまでもラボのあるManhattanの空気に浸っていたかったのだと思います。

帰国後と現在の自分
 2年間のアメリカ留学後は脳神経外科の助手として、約8年間の研究と診療の二束のわらじを経験し、やはり自分は研究をやりたい、特に浜松の光技術を活用して、患者さんの役に立つ研究をしたいと思って、医師になって20年目(2000年)に光を使った医学研究をするという世界で唯一の本学光量子医学研究センター(当時)に助教授として入りました。帰国後毎年Cornell大学のラボに行き、Reis先生はじめみんなと交流を続けたことも、自分が研究から離れられなかった証拠だと思います。Reis先生は、2000年に来日されて助教授になったお祝いをしてくださった後、癌で他界されました。お見舞いのため渡米しましたが間に合わず、現地で悲報を聞いた悲しみは忘れられません。

 虚血性神経細胞死のメカニズムの解明という基礎的研究を続けると共に、同センターでは企業と一緒に研究開発を行う産学連携・医工連携研究の役割も期待され、光・電子技術を活用した新しい医療機器の開発も始めました。2011年からは、JSTの地域産学官共同研究拠点整備事業「はままつ次世代光・健康医療産業創出拠点」を主催し、産学連携による医療機器の開発・事業化の支援を行っています。既に自分たちのアイデア(特許)を具体化した新しい医療機器も製品化し、浜松医科大学は、文部科学省、JST、経済産業省、厚生労働省、AMEDからも大変注目され、現在に至っています。
 私の現在までの立ち位置は、常に医師として「患者さんのためになることを何かできないか」という想いです。基礎研究にしても、医療機器の開発にしても、医師にしかできない研究があります。患者さんのためにという想いからやるべき研究テーマはたくさんあります。学生や若い医師であるみなさんには、いい医師になって、医師にしかできないいい研究をして、他人にはできないことができる無限の可能性を感じて、いろいろな方面に幅広く羽ばたいてもらいたいと思っています。

【略 歴】

1980年 国立浜松医科大学医学部医学科 卒業 医師免許(第250339号)
1980年 浜松医科大学附属病院脳神経外科 研修医
1985年 焼津市立総合病院脳神経外科 科長
1988年 浜松医科大学附属病院脳神経外科 助手
1991年 米国コーネル大学医学部神経学神経科学 研究員
1993年 浜松医科大学附属病院脳神経外科 助手
1994年 博士(医学)(浜松医科大学論文博士課程 第185号)
2000年 浜松医科大学光量子医学研究センター 助教授
2011年 浜松医科大学産学官共同研究センター長
2012年  浜松医科大学メディカルフォトニクス研究センター 教授 
2014年 浜松医科大学 学長特別補佐 
2016年   現職 
【専門分野】
脳神経外科学(脳神経外科専門医)、脳卒中学(脳卒中専門医)、脳循環代謝学、神経科学、バイオイメージング、コンピュータ外科学