大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第49回*   (H30.12.25 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は埼玉医科大学医学部長 村越隆之先生です。
 「ヒヨコと言うほど可愛くはなかったが、、」
                                  
                                 埼玉医科大学医学部長 村越 隆之(生化学教授)

        
 

1990年 トルステン・ヴィーゼル教授とラボ内で

 
 脳研究をしたくて医学部(東京医科歯科大学)に入ったので、当時学長だった聴覚生理学の権威、勝木保次先生の入学式席上での「いつでも研究室に遊びに来なさい」という言葉を信じ難治疾患研究所を訪ねたのだが、「おやおや本気にした学生がいましたね」と笑われてしまった。それでも不憫に思われたのか村田計一教授に引き継いでくださり、教養学部で手持ち無沙汰の午後などはしばしば友人を誘い実験室にお邪魔した。
 3年目、いよいよ専門科目が始まると怒涛のような講義の毎日で、中でも解剖学は和氣健二郎(ミクロ)、佐藤達夫(マクロ)、萬年甫(脳解剖)先生と夢のような布陣だった。萬年先生の「カハールとシナプスする」講義に酔い痴れ、しかし“やはり機能学こそが自然科学の醍醐味”と生意気な思い込みをして、今度は生理学教室に出入りして統計力学の原書輪読会に参加したりしたが、内容はまったく分かっていなかった。専門2年目で薬理学が始まると、学内で「ノーベル賞に最も近い先生」(すでに勝木先生が引退されていたので)として尊敬を集めていた大塚正徳先生の講義に集中した。実習は特に盛り上がり、夏休みにグループ仲間と継続させていただき、ラジオイムノアッセイで脊髄?からのサブスタンスP放出を測った(ような気がする)。その他、免疫遺伝学の笹月健彦先生の部屋やら、和氣先生の部屋やらで英独の原著論文を輪読し続け、臨床はさっぱり勉強しなかった。

 卒業時には臨床では唯一精神科を考えたもののやはり薬理学の大学院に進学し、ラット中枢神経系の in vitro 標本を用いた神経伝達物質研究で学位を取った。当時は私以外にも病理学に3人、免疫遺伝学に1人、公衆衛生学に1人が基礎系の進学をした時代だった。大学院時代は寝ても覚めても実験のことばかり考えていたように思う(はるかかなたの記憶が勝手に美化し始めているのだろうが)。幼若ラットの末梢組織(下肢)に侵害刺激を加え、脊髄後根のみで接続し人工脳脊髄液で灌流されている摘出脊髄標本から反射電位を再現性良く記録する方法、そればかりが頭の中でぐるぐる回っている日々、深夜帰宅時の中央線M駅の改札で、窒素ガスと電磁弁と注射筒を用いた装置が突然湧き起こった。こんなローテクの非科学的な思い付きが一生忘れられない研究の醍醐味として残っているとは、、。
 20世紀に神経生物学という新領域を創成したクフラー(Steven Kuffler)研の一門として、大塚先生が、留学時代に同僚だったトルステン・ヴィーゼル(Torsten Wiesel、1981年ノーベル賞) 先生を紹介くださり、ニューヨークのロックフェラー大学に留学した。ネコ、サルを用いた視覚野の電気生理学的および光学的記録、ラットスライス標本のカルシウム測定、などが進行する中、比較的単独でスライス標本からの細胞内記録を行い、発達期シナプス可塑性における伝達物質の関与について実験を繰り返した。結果的に残念だったのはヴィーゼル先生はすでに管理的な活動が中心で、中堅として師事できる指導者に出会わなかったことである。孤軍奮闘の感もあり、滞在中にははかばかしい結果をまとめられず帰国後に追加実験までして論文を出した。それでも最新の脳研究の動きは浴びるほど受け(それはそれで問題なのかもしれない、、)、その後の自分が続けたいと思う研究スタイルはやはりミクロでもマクロでもない、その中間段階のシステムである局所脳回路の作動原理解明であり、それも神経細胞の集団がまとまって創出する自発活動の生理的意義のようなものではないかと思うようになった。

 医科歯科大に帰国後、生化学に赴任された井川洋二先生のお計らいで中枢神経内でのガン関連遺伝子の挙動を調べることとなった。下肢に痛み刺激を与えると脊髄内で幾つかのプロトオンコジーンが誘導された。Ras や Rhoなど単量体Gタンパク質としての意味づけはすでにされていたものの、神経系でも可塑性発現のシグナルトランスダクションに寄与することの証拠は貴重であったと思う。今にすれば3つほどの短報ではなく、続いて行った視覚入力遮断後の皮質視覚野での変化を合わせることでインパクトの大きな論文にすべきであったが、教授交代の時期にも重なり放置してしまった。

 先述したローテク装置の他にも、ロックフェラー時代には、視覚野スライスに対する薬理学的刺激下で単一ニューロン染色マーカー注入後多数の周囲ニューロン群が染まり、ギャップ結合で繋がった機能集団の証明だ、とばかり夜のマンハッタンを夢見るように帰宅したこと(これはアーティファクトだった)、日本医大に身を寄せていた頃、扁桃体スライスのニューロンがまったく刺激なしにオシレーション活動を見せたこと(これはすでに報告されていたことが判明したものの現在まで研究を継続)、等々、自分一人が世界で初めて見出したと思い込んだ時に味わう高揚感とその後の悲喜こもごもの感情の経過を何回か経験した。やはり、現代のゲームに嵌る子供達となんら変わらない報酬系行動原理で動いてきたのだろう。

 そのような自分が「優れた臨床医をつくり」「世の中に奉仕する」ことを第一義として創立された我が埼玉医科大学の、しかも長と名のつく立場にいるのは甚だ皮肉であり、ある意味これまでの人生への贖罪をせよとのメッセージとも受け取れる。それにしても若い有為な学生さんたちに対しては、あまりにも役立たない個人暦であったにちがいない



【略 歴】
1981年 東京医科歯科大学医学部 卒業
1985年  同 大学院博士課程(薬理学)修了
東京医科歯科大学医学部 検査部、医員
1986年  同 薬理学、助手
この間、1988年〜1990年 米国ロックフェラー大学、博士研究員
1996年 東京医科歯科大学医学部 薬理学、助教授
2002年 日本医科大学医学部 薬理学、助教授
2003年 東京大学大学院 総合文化研究科、助教授、准教授
2010年 埼玉医科大学医学部 生化学、教授
2018年  同、医学部長