大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第50回*   (H31.2.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は日本医科大学医学部長 伊藤保彦先生です。
 「患者である子どもたちに導かれて」
                                  
                            日本医科大学医学部長 (小児・思春期医学教授) 伊藤 保彦

        
 

オクラホマ大学留学時代の筆者。左からReichlin教授、家内、筆者、Reichlin夫人。

 
 小児科医として、患者である子ども達に「こっちだよ」と言われるままに歩いてきた。でもそれで良かったと思っている。

1. 小児科臨床実習で白血病の子どもを受け持つ

 小児科の臨床実習で白血病の男の子を受け持った。骨髄穿刺もやらされた。当時は腰椎棘突起で穿刺をするのが一般的で、腸骨棘で行うよりも難しい。その子はすでに何度か再発を経験し、いわばベテランだった。「マルク初めてなの? コツはね、できるだけ少ない麻酔薬でしっかり麻酔することだよ」と教えられた。彼のアドバイスを守ったこともあり、一回で成功した。小児の白血病の予後は改善され始めた時代だったが、彼のような再発患者の予後は悲観的であるとオーベンから教えられた。私は小児科に入って彼の主治医になりたいと思った。

2. 小児血液学を志す

 入局して彼の主治医になった。そして血液学のグループに入った。当時の小児科学教室では血液グループと免疫グループが渾然となっていた。その頃は白血病の診断に細胞表面マーカーの同定がルーチン化されつつある時代で、白血病の新患が入院すると、免疫グループは大概徹夜で表面マーカーの同定をすることになっていた。当時FCMは値段も恐ろしく高く、教室で所有することはできなかったので、もっぱらウシ赤血球ロゼット法だった。気の遠くなるような手間と時間がかかった。私は血液グループに所属しつつ、この検査にも加わるようになり、免疫グループに足を突っ込む形になっていった。そしてFCMを用いた赤血球補体レセプターの研究を通じて、膠原病と関わるようになった。

3. JRA患者の胃穿孔

 12歳の多関節型JRA(今のJIA)の女の子が入院した。アスピリンとDMARDで治療するが、全く効かない。結局ステロイドを使用してようやく痛みが消え、1ヶ月後なんとか退院した。3日後の夜中の2時に電話が鳴った。その患者が胃穿孔で救急センターに運ばれ、緊急手術だという。大量のアスピリンとステロイドに対し、胃の保護が不十分だった。「リウマチって関節の病気じゃないの?なんで胃に穴が空くの?」と手術後その子が聞いた。「薬の副作用なんだ」と答えると、「じゃ、先生がもっと研究してちゃんと治してよ」と顔をしかめながら言った。

4. 自己抗体の研究へ

 留学先が見つかったという知らせが入ったのは、胃穿孔事件の数日後だった。留学先の候補は二つ。一つは血液学、もう一つは膠原病の研究室だった。胃穿孔の女の子の言葉に導かれるように、私は膠原病の研究室を選んだ。自己抗体の研究で有名なオクラホマ大学のMorris Reichlin教授の研究室だった。主たる研究テーマは、SLEやシェーグレン症候群患者に検出される抗Ro抗体の対応抗原Roの研究であった。私が着任したタイミングは、M.D.,Ph.D.コースの医学生がRoには60kD以外に52kDのisoformが存在することを発見し、米国リウマチ学会で発表してしばらくした頃だった。彼は卒業を控えていて、その52kD Roの論文の執筆に忙しかったが、よく面倒を見てくれた。そんなときライバルのグループから52kD抗原の発見という論文が発表された。研究の第一線というものがいかに過酷であるかを知った。発表して論文にするのが遅れると、こうなるのである。

 3年間死ぬほど研究した。Ro60とRo52の関係、RoとhY-RNAの関係、Roの抗原としての構造特異性、そしてRo52のクローニングとエピトープの同定などである。とくにRo52のクローニングについてはライバルグループも狙っており、必死だった。何とか論文はアクセプトされたが、掲載誌を開いて驚いた。なんと同じ号にライバルグループからも同様の論文が掲載されていたのである。正直、こんな世界で生きていくのは無理だと思った。

5. 不登校の子どもたち

 帰国すると、当時の教授に「自己抗体なんて小児科では役に立たないね」と言われた。そして「千葉に新しい付属病院が開院するから、そこへ行け」ということになった。なら新病院の立ち上げに全力を尽くそうと気持ちを切り替え、診療を始めてみると、不思議と毎日のように不登校や不定愁訴の子どもたちが多数訪れる。いくつか病院を受診した後、新しい大学病院なら行ってみようということになったのだと思う。そこでそんな患者さんの抗核抗体を測ってみることにした。すると、半数近くが陽性であった。もちろん膠原病は発症していない。ある患者さんに言われた。「こういう状態についての専門家はいないの?じゃ、先生が研究して。いくらでも血とっていいから」

6. ふたたびRo、そしてシェーグレン

 それらの患者さんの血清でWesternをやってみた。すると抗Ro52抗体が約20%の患者から検出された。乾燥症状は全くなく、唾液腺病変を伴っていない。この抗Ro抗体陽性の不定愁訴患者さんたちをずっとフォローしている。血清中の抗体は次第にRo52→Ro60→Laへと反応するようになり、口唇生検が陽性化し、成人後に乾燥症状を訴える。何もしなければ多くの子ども達がこういう経過を辿る。実は抗RNP抗体、抗Scl-70抗体などについてもそうで、通常成人になってから発症するシェーグレン症候群、混合性結合組織病、強皮症など、実は子どもの時にすでに始まっている。この事実を不登校の子どもたちから教わった。将来の発症をどう予知し、予防するか。それ以来これが私のライフワークである。


【略 歴】
昭和58年 3月 日本医科大学 卒業
昭和58年 5月 日本医科大学小児科学教室入局
昭和63年 4月 日本医科大学小児科学教室助手
昭和63年 6月 米国オクラホマ州オクラホマ医学研究財団Research Scientist
~平成 3年 5月  自己抗体とくに抗Ro抗体の研究 (Prof. Morris Reichlin)
平成 1年 3月 医学博士
平成 3年 6月 日本医科大学小児科学教室助手に復帰
平成10年10月 日本医科大学小児科講師
平成16年 4月 日本医科大学小児科助教授 (平成19年4月准教授)
平成24年 4月  日本医科大学大学院医学研究科 小児・思春期医学教授 
平成26年 4月  日本医科大学教務部長 
平成30年 4月  日本医科大学医学部長