大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第52回*   (2019.6.25 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は東邦大学医学部長 渡邉善則先生です。
 「若き日に芽生えた臨床医のリサーチマインド」
                                  
                 東邦大学医学部医学部長 渡邉 善則(外科学講座心臓血管外科学分野教授)

        
 

術後管理中…。

 
 私は1982年に東邦大学医学部を卒業し、付属大森病院(現医療センター大森病院)での研修医生活が始まりました。外科学第1講座に所属し、臨床医として常に研究心を持ちつつ、外科認定医を目指す日々を過ごしました。その原動力は、臨床の全てが未知の領域であったので、常に新鮮な気持ちで知識を吸収できたからに他なりません。7年間臨床に没頭し、無事に外科認定医、さらに胸部外科認定医も取得しました。当時、人工心肺を安定して運転するのは難しく、循環動態の不安定性は何が原因で生じているのか疑問に思っていました。当時は論文をネットで検索できる状況ではなく、手術の合間を縫って足繁く図書館に通い文献を検索し、血管内皮由来の平滑筋弛緩因子(EDRF)が血圧や水分の再分布に影響しているためと考えました。2年間の研修医が終わり、3年間の一般外科研修を修了した直後で、当然の事ながら自分で研究費など持っていませんでした。指導医に相談したところ、研究計画書を作成し医局会で承認を得るよう教えて頂きました。今にして思えば、極めて貧弱な研究計画書でしたが認めて頂きました。若手医師の意欲をそがないよう、大盤振る舞いして頂けたと思います。臨床研究を行う高揚感と、新たな知見を明らかにできるのではないかという期待感で、手術と検体採取・分離保存に明け暮れ寝る間もありませんでしたが、とても充実した日々を過ごしていました。100例以上から検体を採取でき測定結果が出ましたが、どのように分析すべきかが課題となりました。私の持っていた高価なPCでも、100以上のデータの平均、標準偏差を出すだけでも数時間かかる時代でした。統計知識も自己流で、意義ある結果を導き出せず、散々な結果となってしまいました。失意の中、それでも臨床活動は懸命に行っていました。先天性心疾患手術、弁膜症手術、冠動脈バイパス手術の執刀医を経験し、心臓外科医としての道筋が漠然と開けてきた感じがしていました。そんな時(1989年)に、東京医科歯科大学胸部外科への出向が決まり、臨床一筋の生活が一変する事になりました。故鈴木章夫教授の下で、臨床に加えて研究にも没頭する事となりました。私にとってこの時が、アカデミックサージャンの道を歩み始めたターニングポイントと言えます。手術の合間を縫って同僚の共同研究者と実験計画を組み、連日空が白み始める頃まで実験を繰り返しました。臨床においては、全く同じものなどめったにお目にかかることは無く、正常といえどもその振れ幅は広く、異常値にいたっては、信じられないほど逸脱した数値の時があります。ランゲンドルフ装置を用いた心筋保護実験では、ほぼ250gに揃えたラットの心臓を用いて行うため、比較的均一な結果が得られるものと思い込んでいました。ランゲンドルフ装置を見ながら、“なんて簡単に実験って出来るもんなんだろう“と浅はかにも感心していました。ところが、いざ実際実験を始めてみると、先ずは技術的問題から実験を開始できませんでした。摘出した心臓を安定して吊るすことが出来ず、上手く心臓を灌流できるのが5回に1回程度で、ラットとは言え無駄に命を失うことに愕然としました。この技術を習得するために、結果とし更に多くのラットの犠牲が必要となりました。医学研究が動物の犠牲の上に成り立っていることを痛感し、必ずや役立つ成果に結びつけられるように頑張ろうと心に誓いました。プロトコール通り順調に実験が進むようになり、初めて心筋の検体が得られた時は、ゴールに一直線で向かっているように感じましたが、徐々に実験の仮説を大きく裏切る結果が続くようになりました。直接指導を頂いていた砂盛助教授に経過報告に伺うと、ゼロベースで全てを見直すよう指導されました。ラットの実験とはいえ、大量の灌流液を全て作り直すのは一苦労で、ずいぶん気分は落ち込みましたが、共同研究者と話し合い、振出しに戻ることを決意しました。また、灌流液を実験の都度作成することとして再開したところ、極めて安定した実験ができるようになりました。ストックソリューションなどと称して、手抜きをしていた罰が下ったのでしょう。この実験は、共同研究者の学位論文となり、成果をあげる事となりました。科学的論拠に基づいた仮説を証明する研究を与えて頂き、初歩的な失敗を繰り返しながらも比較的自由に実験させて頂けたことは、以後の私にとって、かけがえのない経験となりました。約1年で東邦大学に戻る事となり、再び臨床に舵を切ることとなりました。
 振り返れば我儘な生き方でしたが、多くの方から温かく見守られて、数々の失敗も何とか乗り越えてきました。マインドだけでは研究は成就しません。研究を行うスキルに長けた指導者の下で、基本をしっかり学ぶことが重要です。皆さんにも、多くの協力者が現れる事を祈念いたします。


【略 歴】
1982年3月 東邦大学医学部医学科卒業
1990年6月 東京医科歯科大学胸部外科学講座
1997年1月 ニューヨーク州Lenox Hill Hospital研修
1997年6月 東邦大学医学部胸部心臓血管外科学講座 講師
2005年2月 東邦大学医療センター大森病院心臓血管外科 助教授
2007年4月 東邦大学医療センター大森病院心臓血管外科 准教授
2011年8月 東邦大学医療センター大森病院 大動脈センター教授
2012年9月 東邦大学医学部外科学講座 心臓血管外科学分野 教授
  東邦大学大学院医学研究科 代謝機能制御系心臓血管外科学 教授 
  学校法人東邦大学 理事、評議員 
2013年4月  東邦大学医学部外科学講座 心臓血管外科学分野 主任教授 
2015年9月  学校法人東邦大学 理事、評議員 重任 
2018年4月  東邦大学医学部長、大学院医学研究科長