大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第58回*   (2020.6.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は京都府立医科大学研究部長 八木田 和弘 先生です。
 「自分の人生を生きるために : 概日リズム研究との出会い」
                                  
                       京都府立医科大学 研究部長 八木田 和弘(統合生理学部門 教授)

        
  筆者の学生研究の頃。 (左)井端泰彦教授(当時)と。 (右上下)6回生の
時に臨床実習で訪れたColumbia大学New York-Presbyterian Hospital 。
 
 いまの自分は、偶然か必然か?この寄稿文のような執筆の機会があると、いつも考えてしまう問いである。
 私は、これまで概日リズムという生体の時間活用の仕組みについて研究してきたいわゆる「研究医」に分類される基礎医学系教員である。子どもの頃から父の影響もあって医師になりたいと思い、中高生のころには臨床と研究の両方に携わる医学者になることを夢見ていた。その点から見れば、いまの私は自分の意思で決めた道を一本道で歩いてきた「必然」であるようにも感じられる。しかし、研究テーマも含め、いまの自分があるのは様々な「偶然」に導かれた結果でもある。そこには家族からの支援や友人からの影響も少なからず作用している。そして決定的だったのは、大学での恩師達との出会いであったように思う。

 私が子どものころ(小学校高学年から中学に入ったころ)から、そこはかとなく医師であり研究者である「研究医」に憧れを持っていた。それは、父の恩師である三好和夫先生(徳島大学第一内科教授:1914-2004年)が日々の研究や診療の指導の中で語った言葉を、日常的な会話の中で父から聞いていたことによるものと思われる。例えば、「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」という言葉がある。これは、かなり後になって、三好和夫先生の恩師である東京大学第三内科の冲中重雄教授が最終講義の中で語った非常に有名な言葉であることを知ったのだが、ずっと心に残り続けていた。このような幾つかの言葉を反芻し考え続けたことが、子どものころに形成された私の核(コア)であり私の原点である。

 ここから、偉い人の伝記では、寝食を忘れて勉学に励み優秀な成績で超一流大学の医学部に進み・・・となるところだが、実際はそうは行かない。私は学校の勉強がずっと嫌いだった。しかも、近くに強靭な精神力と能力で圧倒する同級生の友達もおり、とても大きな声で「医学者になりたい」などと言う自信はなかった。実際は、なんとか京都府立医大に入学できてラッキー、という感じであった。ちなみに、その中学時代からの同級生というのは、現在、精子形成研究で世界をリードする京都大学医学研究科の篠原隆司教授である。篠原先生とは大学に入ってからも同じ京都ということで、よく会って話を聞いていた。四国の高松という地方都市にあって、これは非常に稀有な偶然であるに違いないが、私の人生には大きな影響があった。

 京都府立医科大学は、私が入学した30年ほど前も、今と変わらず臨床志向の大学であった。2回生の時から、解剖学教室の井端泰彦教授(元学長)の教室に入れていただき、免疫組織化学などの形態学的な実験方法を体験することから研究の真似事を始めていた。当時、篠原くんの京都大学医学部や兄の通っていた大阪大学医学部では、学生が基礎の教室に入って研究することはかなり一般的であり、各学年10人程度は本格的な研究に携わっている学生がいることを知っていた。しかし、京都府立医大では、同級生にはもちろん一人もおらず、基礎研究を志向する学生は極めて稀であった。篠原くんや兄の存在は、京都府立医大だけが世界ではないことを教えてくれて、周りに同じような人が一人もいなくても全く気にならずに済んだことは、偶然がもたらした重要な要素であった。

 学生時代には、文字通り実験にのめり込み、学生時代の全てをラボ中心の生活で過ごしたように思う。もちろん、それなりに学生らしい活動も両立していた。非常にゆるいゴルフ部に入りゴルフを嗜んだことは、現在思いもよらぬ人間関係の広がりをもたらしてくれた。また、トリアス祭という学園祭の実行委員として毎年ダンスパーティー部門という非常に「チャラい」部門で活動し、5回生の時には部門長までやってしまった。しかし、私の学生生活の基本はあくまで第二解剖学教室における研究であった。朝はラボに登校し、荷物を置いて実習に出かける。講義や実習が終わるとすぐにラボに戻って実験を続ける。最初、第二解剖の門を叩いたのは偶然の要素が大きかったが、結局、2回生から6回生の秋まで研究室中心の生活を続けた。天才ではない平凡な医学生が、医学研究者という厳しい世界を検討するにあたって、実際に自分の身を置いて自分自身を見極める作業であり自分の人生を生きるために必須のプロセスだと考えていた。

 そのような生活を続ける中で現在の自分を決定づける出会いがあった。井端泰彦先生(元学長)のもとで、当時、助教授になったばかりの岡村均先生(現京都大学薬学部名誉教授)との出会いである。非常に個性的な先生で、強烈であった。今でこそ、概日リズム分野で世界的権威の一人として著名だが、最初に井端先生から紹介された時には「えらい個性的な芸術家のような感じの先生やな」というのが偽らざる印象であった。しかし、研究にかける情熱、そして何より自力で這い上がる努力とそれを裏打ちする信念(これはその後の岡村先生の成功の原動力になっているのだが)を、成功の前から間近で共有することができたことは非常に稀な偶然であり幸運であったと思う。学生時代を通し、井端泰彦先生(京都のお父さん)、岡村均先生(とても真似できない強烈なメンター)、という二人の恩師との出会いが直接的に現在の自分に至るきっかけとなっている。また、京都府立医大が極めて臨床志向の強い大学であり、関連病院も多く、臨床教室では自分の納得のいくまで研究に打ち込むことが難しいと感じたことも、現在の自分に至るキャリア選択に大きく影響している。子どものころ、あるいは大学入学当初に想定していた未来とは異なるものの、偶然の産物として今に至る道に導かれた。
 学生時代を振り返り、私はいまでも、おそらく当時の全国の医学部学生の中でも最良の経験をしたのではないかと思っている。学生時代に、筆頭英文論文1編、海外での国際学会発表2回、国内学会発表3回、という研究面の業績は普通だが、海外臨床実習(クリニカル・クラークシップ)として Yale大学(5回生)とColumbia大学(6回生)に1ヶ月ずつの短期留学の機会をいただいたことは当時まだ非常に珍しいことであったと思う。もちろん、大学にそのような制度はなく、井端先生に紹介していただき実現した。基礎医学ありきではなく広い視野で自分の将来を模索することが切実なモチベーションであった私にとって、基礎と臨床それぞれの世界レベルの素晴らしさと厳しさを垣間見ることができた経験は、最高の医学部教育であった。私にとっては、大学生の間は自分の可能性を検討できる貴重なトライアル期間であり、自分の適正と医学研究者という夢をすり合わせる卒業後に向けての準備期間でもあった。実は、学生時代に父が病に倒れ、卒業後すぐに高松に帰ろうかとも思っていたのだが、母からの「自分の人生を生きなさい」という言葉に、言い訳しない人生を選択すべきだと考え直した。このような状況の中で、「臨床医学に進むべきか基礎医学に進んで良いのか」を必死に考え、できる限りの可能性を実際に検証していく作業として基礎研究も海外臨床実習も真剣に向き合った。その意味で、私にとっての学生研究は単なる基礎研究体験にとどまらない、自らの道を切り開く非常に能動的なプロセスでもあった。様々な偶然と必然が作用した結果ではあったが、非常に濃厚な時間を過ごせたことは間違いなく大きな意味があったように思う。
 選択した進路は、2年間は内科での研修医として臨床の修行を積み、卒後3年目から基礎の大学院に進学し行けるところまで基礎研究の世界でがんばる、というものであった。ある意味、父の病のことがあっての選択でもあるのだが、もともと内科で研究できればと思っていた私にとって、研修医としての臨床経験は一つの夢の実現でもあった。しかし、この研修医の2年間で概日リズム研究者としての原点となる経験が出来たことは、また不思議な偶然であった。私が入局したのは京都府立医科大学第三内科で消化器と血液で多くの業績を上げていた教室であった。当時、ウイルス性肝炎の治療薬としてインターフェロンが注目を集めていた。現在はNASH/NAFLDの権威として著名な、肝臓病学の岡上武先生(当時助教授でのちに教授)を中心にインターフェロン治療の臨床研究を行っており、非常に多くの患者さんが入院治療を受けていた。研修医の仕事は朝の点滴当番であり、インターフェロン筋注も研修医の役目である。このインターフェロンは副作用が強く、ほぼ間違いなく高熱が出て患者さんも非常にしんどそうであった。ところが、週に一度出張しているある企業の健康管理室での勤務で、意外なことを知った。退院後も6ヶ月に渡りインターフェロンの注射を続ける必要から、当時は健康管理室でその注射を行っていたのだが、仕事終わりに注射に来た患者さんに聞いてみると、夕方に注射するようになってからほとんど熱も出ないし本当に楽になったという。そういう目で添付文書を見直してみると、当時からうつ病や睡眠障害など概日リズムと関連が深い副作用に注意喚起がなされていた。インターフェロンの注射時刻によって副作用の強さが大きく変化するという事実との出会いは、大きな衝撃であった。学生時代、岡村先生がラットのケージに暗幕を被せながら実験していた概日リズムという研究分野が、いまひとつ自分の中にしっくりこなかったのだが、1995 年に経験したこの「ヒトの身体は概日リズムで制御されている」という納得感は、その後、神戸大学に教授として転出していた岡村先生のところで大学院生活を送ることを決意する決定打となった。ちなみに、インターフェロンに関しては、2002年に視交叉上核に作用し時計遺伝⼦の発現を乱すことが報告され、臨床での体験を分子メカニズムが裏打ちすることになった。
 大学院入学の1997年は、概日リズム研究分野における記念碑的な年である。哺乳類で初めて時計遺伝子がクローニングされたのがこの年であった。シカゴのNorthwestern大学のJoseph Takahashi先生がマウスのforward geneticsでClock遺伝子を同定し、哺乳類も時計遺伝子によって概日リズムが制御されていることを明らかにした (Cell, 1997)。また、同じ頃、東京大学の程肇先生がショウジョウバエ時計遺伝子periodのホモログをマウスで同定し、岡村先生がin situ hybridization法を駆使して概日リズム中枢である視交叉上核で概日周期をもって発現していることを突き止めた (Nature, 1997)。これらの論文が出る直前に大学院に入学した私の大学院生時代は、そのままその後数年間続く狂乱の時計遺伝子クローニング競争の時代と重なる。一流雑誌に次々と論文が掲載される時期であり、幸運な偶然かと思われる人もいるかもしれない。しかし、実際は、まさに「狂乱」であり、むき出しの弱肉強食の世界にいたいけな子羊が放り込まれたようなものである。まずあるスタッフの先生から言われたのが「時計遺伝子のクローニングは学位論文にはしないから、自分のテーマは自分で探せ。」さらに、別の先生から「マウスを使った視交叉上核の研究には手を出すな」という、当時は「じゃあ概日リズム研究なんてできないじゃないか!」というレベルのお達しである。自力で道を切り開く以外に学位すら取得できない。基礎は論文業績がモノを言う世界であり、「おいしい」テーマはスタッフ優先であり、まさに弱肉強食であった。もちろん、当時の話で、いまではこのようなラボはないと思う。
 何れにしても、子羊のままでは生きていけない。腹をくくり、誰もやっていない新天地を求めて「視交叉上核以外に発現している末梢細胞の時計遺伝子は何をしているのか」というテーマを掲げ、別の教室に通って教えていただきながら培養細胞を用いた実験系を自ら確立した。1997年当時、視交叉上核以外には自律振動する概日時計は存在しないと信じられていたため、概日リズム研究者はほとんど見向きもしていなかった。しかし、そこから、培養細胞にも遺伝的に規定された概日時計が機能していることを証明することに成功し(Science, 2001)、「細胞時計」の概念確立への貢献につながった。これは初期の代表作で、偶然の巡り合わせで狂乱の時計遺伝子クローニング競争の時期に身を置きながら、それをテーマとすることが許されず、自分の力で新天地を切り開かざるを得なかった結果として掴んだ必然の成果であった。その後、全身の細胞一つ一つに概日時計が存在する意義と意味をライフワークとして考え続け、その10年後の「概日時計は細胞分化と共役関係にある」という細胞の普遍的特性の発見(PNAS, 2010)へとつながった。この二つの仕事は、幸運にも概日リズム分野における新概念確立という評価を得て、私の名前を分野外の研究者にも広めてくれるとともに基礎研究医として生きる現在に導いてくれた。このような経験を通し私が感じていることは、「偶然」と「必然」が織りなす幸運な出会いは、能動的に自分の人生を生きるという姿勢の先に待っているということである。

 いま、AIやビッグデータ統計科学など、生物学的医学以外の専門性を持つ医学研究者の必要性が急激に高まっている。このような学際的医学研究には、大きな可能性と輝く未来がある。多様な人材がこれからの医学には必要であり、医学部にはそのポテンシャルを有する学生が多いと実感している。多様な能力をもった研究医養成の重要性はますます高まる一方であり、学生時代にその現場に身を置くことは必須とさえ感じる。カリキュラムは以前と比べ余裕が少なくなっているが、自分の人生を生きるために、様々な可能性にチャレンジできる学生生活を許容される医学部であって欲しいと個人的には感じている。最後に、本稿のような、基礎研究医の例としての紹介文では、一般的に大成功した著名な大教授が登場する。しかし、凄すぎて自分に当てはめることができないと感じる学生も多いのではないか。私も学生時代にそう感じていた一人であった。そこで、私のような「現在進行形」の基礎研究医が「プロフェッサーがヒヨコだった頃」を執筆するのも意味があるかもしれないと思い、今回の執筆を引き受けることにした。分不相応であることは重々承知しつつ、逡巡する学生の参考になればという思いに免じてご容赦いただければ幸いである。

【私の履歴書】
平成 7年 3月 京都府立医科大学医学部医学科卒業
平成 7年 4月 京都府立医科大学附属病院研修医(第3内科)
平成12年 5月 京都府立医科大学大学院医学研究科博士課程修了
博士(医学)(第2解剖学講座 井端泰彦教授)
(入学と同時に神戸大学医学部第2解剖に国内留学)
平成12年 6月 神戸大学 助手 医学部(第2解剖:岡村均教授)
平成16年 3月 名古屋大学大学院 COE助教授 理学研究科(システム生命科学)
平成18年 11月 大阪大学大学院 准教授 医学系研究科(神経細胞生物学講座)
平成22年 9月  京都府立医科大学大学院医学研究科 教授(統合生理学)  現在に至る