大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第10回*   (H24.8.28 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は徳島大学医学部長 玉置 俊晃 先生です。
  『薬理学は楽しい!』

      
 徳島大学医学部長・大学院ヘルスバイオサイエンス研究部長 玉置 俊晃 (薬理学分野教授) 
        

「家族写真」San Antonio,River walkにて

 私は、子供の頃から病弱で多くの医師に助けられてきました。このため、小学校を卒業する頃には、お世話になった先生方の恩に報いるために病魔で苦しむ患者さんに対して少しでも力になれたら良いなと思い、町医者を目指すようになりました。このような考えで医学部に入ったために基礎医学に目を向けることはなく臨床医学や社会医学に興味を持って6年間を過ごしました。お世話になった先輩が腎臓内科医であったために、腎臓内科医になろうとしましたが、卒業年時になって徳島大学の腎臓内科グループが解散してしまいました。予定のコースが突然無くなって困惑している時に、泌尿器科に入局した先輩から酒をご馳走になり勧誘されました。当時は、ドイツ流の皮膚泌尿器科からアメリカ流の泌尿器外科が独立して余り時間がたって無く、泌尿器科医は極度に不足していました。泌尿器科は腎臓も扱うし、泌尿器科医が不足しているのであれば私にも患者さんを助ける活動が出来るチャンスが多いのではないかと思い入局しました。内科医を目指していたのに外科系の世界に入ってしまいました。
 泌尿器科医になってほとんどの時間を病院で過ごす生活を7年間続けていました。頑張れば頑張るほど、診療の腕はともかく夜でも休日でも診てくれる医師であるとの評判が医師仲間や患者さんに広がり、私のポケットベルは夜中や休日も関係なく鳴っていました。妻からは、全く約束を守らない家庭を顧みない酷い主人であると言われ続けました。このような生活を続けている時に、新設の香川医科大学の薬理学講座教授として学会活動で知り合いであった安部陽一先生が赴任してきました。薬理学研究を真剣にやるつもりはなかったが、米国留学をさせてくれるとの言葉に惹かれて薬理学の研究を始めました。最初の研究を論文にまとめてAmerican J Physiology に受理された時点で、安部陽一先生の推薦で生まれたばかりの息子を連れて3人でテキサス大学サンアントニオ校の腎臓内科に留学しました。留学中の2年間は腎臓の基礎研究に明け暮れましたが、天国のような生活でした。ポケットベルが鳴ることは全くなく、講義・会議のdutyはない、準備や後片付けはテクニシャンがしてくれる、指導する学生や後輩もいない、ただ自分の研究に没頭すれば良い環境は最高でした。妻との約束も時間を守って実行できたし、子供とゆっくりアパートのプールやテニスコートで遊ぶことが出来ました。
 このような環境で研究を続けている時に、安部陽一先生がテキサス大学を訪問してくれました。留学が終わると泌尿器科医に戻ることを決めていた私に、面白い研究をしているのだからもう少し薬理学で研究を続けないかとの提案でした。やっと基礎研究の面白みが解り始めていた頃でした。さらに、自分の時間を自分の考えでコントロール出来る基礎医学研究医としての生活にも魅力を感じ始めていました。しかし、私が医師になる目的は、病魔に苦しむ人々の力になることであったのではないか?どうしたら良いか思案の日々が続きました。結局。泌尿器科の先輩のアドバイスも有り、テキサス大学で得た実験技術や知識を生かすために、安部陽一先生の下で研究を続ける事になりました。
 日本に帰ってから、とにかく2~3年は基礎研究を続けようと思っていましたが、既に26年も薬理学研究を続けています。私が医学部に入学した時に基礎医学者として生きていく選択は全く考えてなかったのですが、薬理学を続けてみると考えていた以上に面白いことが多く有りました。又、多くの医師と違うことをする事で希少価値が生まれて、多くの先生方や仲間から大切にしてもらったように思います。さらに、患者さんの都合に合わせた無茶苦茶な生活ではなく、自分で決めたスケジュールで自分の生活を設計できることも基礎医学分野に身を置く者の特権のように思います。さらに、研究を通じて世界の多くの研究者と友達になり世界の町々を訪問できることは、放浪癖のある私には合っていたのかも知れません。泌尿器科を選んだ時も薬理学を続ける事を決意した時も、他の医師が余りやらないことをすると変化の多い人生を楽しめたり周りの人々から重宝されたりして面白いのかな?との私の好奇心が決断には大きなファクターになった様に思います。平成8年に母校の教授として迎えていただき、現在は母校の医学部長をしています。このような医師としての人生は、私としては全く想像していませんでした。基礎医学研究者として生きていくことを選択する時にはかなり迷いましたが、今、振り返ってみると、私は薬理学者として大いに人生を楽しんできたと思います。
 私が非常に恵まれていたことは、遠くから安部陽一先生が常に見守ってくれて精神的な後ろ盾になってくれたことと、泌尿器科の仲間や医学部の同級生が常に物心共に支援してくれたことです。 

【私の履歴書】 

昭和52年3月 徳島大学医学部医学科卒業
昭和52年5月 徳島大学医学部附属病院および関連病院で泌尿器科医として勤務 
昭和59年4月  香川医科大学薬理学講座で本格的に基礎研究を始める 
昭和60年4月  香川医科大学薬理学講座助手
昭和60年6月 テキサス大学サンアントニオ校腎臓内科に留学(昭和62年6月帰国)
平成4年10月 香川医科大学薬理学講座助教授
平成8年8月 徳島大学医学部薬理学講座教授
平成16年4月  徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部 薬理学分野教授 
平成21年4月  徳島大学医学部長 
平成23年4月  徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部長