大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第12回*   (H24.10.31 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は山口大学医学部長 坂井田 功 先生です。
  『私のClinical Scientistとしての軌跡(奇跡?)』

      
     山口大学医学部長・大学院医学系研究科長 坂井田 功 (消化器病態内科学教授) 
        

トーマスジェファーソン医科大学(フィラデルフィア)の研究室にて(右が筆者)

 私は卒業後すぐに消化器内科に入り、大学院に進学しました。今から思えば、若かったからこそ臨床と研究が両立できたものと考えます。朝から夕食までは、文字通り臨床(研修医)を行い、夕食後からはネズミを用いた研究を夜中まで行い、その後は友人たちとのノミニケーションと、充実したというより地獄のような毎日でしたが、今だからこそいえることですが、充実していたことも疑う余地はありません。当時はまったく何か、解離したことを2つ行っていたこという気持ちは正直ありました。ろくに寝る時間もなく、当直時に専門外の領域の診療を、先輩に聞きながら学んだ記憶があります。
 数か月かけて何Kgもの臓器から精製したタンパク質が、患者さんの急変でカラムを通過してなくしてしまうこともしばしばありましたが、人命が最優先されるのは、当たり前ととくに言い訳もしなかったですが、研究指導してくれた先輩からはよく怒られたのも事実でした。これに関しては、こちらが正しいと自信もあったので気にも留めませんでした。

 時代も違うので比較はできませんが、今の研修医のように、指導医が手取り足取り指導してくれる時代ではなく、先輩・同僚に聞きながら、文献検索しながら、患者さんの治療に全力で取り組んでいたのが懐かしく思い起こせます。患者さんが命をあづけてくださったのにそれに十分答えらなかった時の無力感は何とも言いようがなく、いつかは誰かのために役立つ研究をと思ったのもついこの前のことのようです。
 このころ思ったことは、1.臨床における指導は患者さんである。2.臨床家である限り基礎研究を必ず臨床に役立てる、という思いでした。
 大学卒業後3年間のドタバタしているうちに、少しは学位の結果も出始めたときでしたが、当時の教授や上司からアメリカへの留学話をいただきました。行きたいのは山々でしたが、大学院生で収入はアルバイトだけでしたが、研究でアルバイトにも行く時間がなく、手元にお金がなかったのですが、まさしく神のお助けで、アパートの立ち退きを求められ住んでいた自分にもアメリカ行の片道切符程度が買えて、言われて1か月後には、フィラデルフィアにいました(1987年4月)。日本にいた時とは全く別の研究で、肝細胞内に鉄代謝とラジカル発生による肝細胞障害とその時の、単一肝細胞内のカルシウムの濃度の測定でした。益々臨床とはかけ離れていくので焦りもありましたが、当時単一肝細胞内のカルシウムの濃度の測定ができるようになり、世界的競争の真中であり留学先の大学でも一台しかなく、アメリカ人、英国人、フランス人、スウエーデン人、ドイツ人などが使用しており、なかなか使用できずなぜか不思議にも、私が使う日には必ず故障していました。日本の国際社会での地位を思い知らされた瞬間でもありました。そこは、アメリカまで来た以上は、結果なくして帰れないと、ガッツを出し自動で動くレンズを暗室で36時間ぶっ通しで手動で動かし実験を強行し、アメリカ人からはクレイジーだとか言われましたが、このようなことが何回かあった後からは、不思議に故障もなくなりました。しかし、あまりにデーターをコンピューターに詰め込みすぎて、クラッシュを起こして、競争相手にNatureに先を越されことは残念の極みでした。しかし、2011年になり細々続けていた鉄の仕事が臨床応用でき、New England Journal of Medicineに掲載できたことは、文字通り命を懸けて協力していただいた患者さんのおかげであり、長年の私の一つの橋渡し研究の区切りになり、決して基礎研究が無駄でないことを自信を持って若い医師に言えることと思っています。
 現在、行っている再生医療もぜひ、一日も早く患者さんに福音をもたらせるよう精進しているところです。
 しかし、海外留学での一番の成果は、やはり異文化との接触であり、いろいろな考え方、価値観の違いを理解し、お互いを尊重し合う心を養えたことだと思います。留学生が集まり英語で会話していたら、アメリカ人から何を話しているのか聞かれて、笑いあったこともありました。日本人の美徳・道徳観はすばらしく、卓越した良質な民族とはおもいますが、逆に発信能力という点では必ずしも優位でなく、それは英会話能力だけではなく、国際社会で生き延びる力強さが弱い気もしました。
 
最近の若者は海外へ留学したがらないといわれますが、是非チャンスがあれば、いやチャンスを作って狭い島国での生活に満足せず、西欧に限らず広く世界を見てきてほしいと思います。


【私の履歴書】 

昭和59年3月 山口大学医学部卒業
昭和59年4月 山口大学医学部第一内科 大学院入学 
平成元年  大学院修了 
(昭和62年~平成2年までの3年間 米国トーマスジェファーソン医科大学に留学)
平成5年 山口大学医学部第一内科 助手
平成14年 山口大学消化器病態内科学 講師
平成16年 山口大学消化器病態内科学 助教授
平成17年8月 山口大学消化器病態内科学 教授
平成18年4月 山口大学大学院医学系研究科 消化器病態内科学 教授
山口大学医学部附属病院光学医療診療部 部長(併任)
平成21年4月 山口大学医学部付属修復医学教育センター長
平成22年4月 山口大学医学部付属病院肝疾患センター長
平成24年4月 山口大学大学院医学系研究科長
山口大学医学部長