大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第15回*   (H25.2.8 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は岡山大学医学部長 吉野 正 先生です。
  『研究医と留学体験』

      
        岡山大学医学部長 吉野 正 (病理学(腫瘍病理/第二病理)教授) 
        

留学先のスタンフォード大学でButcher博士と
 卒業後、小川勝士教授の教室の大学院生になり病理学をはじめました。その当時ほぼ毎年2名ずつ入局しており、和気藹々した雰囲気でした。その後、高知医大(大朏裕治教授)を経て、本学赤木忠厚教授の教室に戻ってきました。教室は明治26年に創立され、本年(平成25年)創立121年目となります。わたくしは第7代になります。第4代の濱崎幸雄教授が「人体病理、実験病理を両輪としてともに重視する」という教室是を策定され、それを守ることを心がけております。今や個人で双方とも通暁することは難しくなってきていますので教室全体としてそのようなスタイルであればよいと考えています。
 研究面で、最大の体験は米国スタンフォード大学病理学教室への留学(平成2年~4年)です。その当時、日本は米国のロックフェラーセンターを買い取った直後で、それ自体顰蹙をかっていましたが、国力としては空前の状態で、留学して何を得るものがあるのか、という疑問を持ったものです。その点、赤木忠厚名誉教授の後押し、教室の面々のご協力により留学が成就できたこと心から感謝申し上げるものです。今思い出せば当初の英語力はひどいもので、ハンバーガーひとつまともに買えないところからスタートしました。留学先のボスはEugene C. Butcher博士(写真参照)で准教授でありながらグラントを多数獲得し、リンパ球のホーミングについて素晴らしい業績を挙げていました。わたくしはリンパ腫を専門にしており、皮膚のリンパ腫は多数の病変を皮膚に作るが他の臓器にはあまり病変を作らない、といった経験からホーミングシステムは非常に興味深いテーマでした。彼のところで、皮膚、消化管、リンパ節のそれぞれの接着因子が同定されたのですが、留学時は皮膚と消化管のシステムについて研究の真只中にあり、非常な活気と競争の激しさを体験することとなりました。
 研究室は大きく接着分子のクローニングする部署と免疫学的手法により新たな接着因子を見出す部屋に分かれており、わたくしは後者に属していました。FACSを頻用し、WesternブロッティングやELISAといった手法も用いました。細胞接着の解析系は独特のものでした。FACS解析はリンパ腫診断上とても有用でその時の経験が生きています。あるとき細胞分取をする必要がありましたが、研究室にはそれを専門にするひとがおり、細胞を渡してよろしく、と言えば直ちに分取してくれました。研究員は20名ほどでしたが、「常勤技術員」は(たった)3名でした。どのひとも自分の能力に誇りを持つとともにとても親切で、非常に有力な武器である単クローン抗体も抗原を打った動物の脾臓を渡すとハイブリドーマの作成と上清分取までしてくれるシステムで、随分楽をさせてもらいました。
 研究面で非常に興味深くためになったのは、ボスや共同研究者とのDiscussionでした。日々の実験開始時やデータが出たあとの解析などですが、長いときには午前中まるまるそれに充てられていました。当初、速射砲のようなEugeneの英語は殆ど理解できないし(英国から来ていたマーチンは、おれでも半分くらいしかわからない、と慰めてくれました)、大体の方針は決まっているのでさっさと実験を始めないかとも思っていました。しかし、慣れるにつれて、この種の議論は非常に大事なことがわかりました。Eugeneの英語は早いばかりでなく、思考があれこれと浮かぶ毎に方向転換をしていて余計わかりにくいものでした。それは山を登るにどのルートがいいのかを判断するのに似ている作業でした。彼自身は手を動かすことは殆どなかったのですが、過去の多数のメンバーのデータをよく記憶しており、それを頼りに議論を進め最終決断は彼が下していました。この点だけは誰もかなわない存在でした。自分のそれまでの経験では実験を始める前あるいは経過中に徹底的に議論するということはあまりなかったので、日々それが続けられるのは新鮮な体験でした。また、NASAをはじめとしていろいろな研究者が来訪した際はプレゼンをしてもらい、新たな方向性を探る努力を惜しみませんでした(寝転んで聴くのですからこれは日本ではできません)。その時分の国力から妙な判断を事前にしていましたが、米国の強さの原点は、あらゆる発想を否定しない、というところにあるのではないかと感じました。
 ここまで研究ばかりしていたような文章になっていますが、研究室のメンバーとはBBQや牡蠣三昧小旅行、ナパワイナリーやサンフランシスコ等々に遊ぶことも頻繁にありました。家族旅行も。研究室ではTGIF(Thank God(Godness), It's Friday)とその予定が簡単に書いてあって気軽に参加しました。最初のBBQパーティーは遅れないように懸命に運転しましたが誰もいない、という状態でそれから2時間くらいの間にだらだらと集まってくるというのが普通でした。いかにもカリフォルニアで、“Tadashi=わたくし, ここはアメリカではないよ、といったひともあります。いずれにしても、自分が自分だけのために時間を使える最後(?)の機会になるのではないかと感じていましたが、今となっては正しい想像でした。無理をしても留学する価値がある、というのが結論です。 


【私の履歴書】 

昭和56年3月 岡山大学医学部医学科卒業
昭和56年4月 岡山大学医学部医学研究科(病理学)入学(小川勝士教授) 
昭和60年3月   同上卒業 
昭和60年4月 岡山大学医学部付属病院病理部医員
昭和60年10月 高知医科大学第二病理 助手(大朏祐治教授)
昭和61年4月 岡山大学第二病理 助手 (赤木忠厚教授)
平成2年8月〜
 平成4年3月
米国スタンフォード大学に留学
平成11年4月 岡山大学第二病理 講師
平成13年4月 岡山大学大学院医歯学総合研究科 講師
平成15年4月 岡山大学大学院医歯学総合研究科 教授
平成17年4月  岡山大学大学院医歯薬学総合研究科 教授 
平成19年4月 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科医歯学(修士課程)専攻長
平成21年4月  岡山大学医学部医学科長 
平成23年4月  岡山大学医学部医学部長