大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第17回*   (H25.5.30 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は慶應義塾大学医学部長の 末松 誠 先生です。
  「いい酸素、悪い酸素」

      
                   慶應義塾大学医学部長 末松 誠 (医化学教室教授) 
        

大学院生のころ、光亭にて。消化器内科の先生方と
(前列左から2人目が故土屋教授、後列左から3人目が筆者。後列一番右が故石井裕正教授)
 「いい酸素と悪い酸素があるらしいのよ。どれがいいのか悪いのか目で見て判るように染めてみなよ!」「組織を潰して物を測る生化学者なんて信じられませんよね」私が医学部を卒業して大学院医学研究科内科学専攻に入学した時、師匠の故土屋雅春教授から言われたことはこの2つのことでした。
 土屋教授は小生が医学部6年生の春に食道がんが見つかり、久留米大学の掛川教授が執刀してくださりました。秋には復帰して鬼気迫る毎日を送られていたことを学生の頃から明瞭に覚えておりました。先生は体力の回復のために富士山にテニスをやりに週末に富士山に出かけるようになったのですが、私は偶然学生懇親会のメンバーに入り、お付き合いが始まりました。テニスを終え夕食を皆で撮ったあと、快晴でしたので小生は車に積んでいた天体望遠鏡で写真を撮り始めました。夜中に起きてこられた土屋先生が、「カメラを固定して映すと、星が動くんじゃないの?」と聞かれたので、「天の北極に望遠鏡の軸を合わせてカメラを乗せた望遠鏡をその軸にそってモータで回せば、暗い星も点になってきれいに映るんです」と答えました。東京に帰ってから数日後に、直接お電話をいただき「君は顕微鏡の仕事をしてください。微小循環です。」と言われました。有無を言わさず内科に入局することになりました。

 1年生の時、大教授とのマンツーマンの実験は正直辛かったです。金曜日は朝の教授の外来に引き続き、昼から回診がありました。回診は大抵病棟で我々若年兵が教授の指摘で沈没し、比較的短時間で終わるのですが、その直後から「実験に行くぞ!」と言われ、今は煉瓦館という建物のある地に大正15年にできた食養研究所の3階にある研究室に行き、また教授と対面しなければなりませんでした。普段、研究している先輩の先生方はこの時間帯になると一斉にいなくなり、我々2名だけになりました。土屋教授が慣れた手つきでラットに麻酔をし、両手両足を日本手ぬぐいを細く切って作ったひもを用いて固定し(金属を一切使わない)、麻酔がかかったら、局所麻酔を大腿部あるいは頚部に打ち、静脈カテーテルを入れる。さらに腹部正中切開を行い、回盲部を直接手を触れずに腹壁を押しながら腹腔外に押し出し、解剖台からラットを外して、アクリル板の保温プレートに側臥位に横たえ、綿棒を使いながら丁寧に回盲部を少しずつ引っ張り、腸間膜をプレート越しに生体顕微鏡視野に置く。腸間膜微小循環の血流をビデオで記録する、、、、。こういう実験をマンツーマンで2年ほど続けました。実験が教授の思い通りになることは殆どなく、大抵は期待外れの結果に終わるか、私のpreparationが悪くて、腸間膜を展開したときに、血流が全部止まっていたり、カテーテルから入ったはずの色素が、挿入ミスで入らなくなるなど、初歩的ミスの連続で苦労の連続でした。3年目くらいにようやく慣れて、腸間膜の血流測定、白血球のrolling sticking, migrationなどの記録やmorphometryなどはできるようになったのですが、先輩の先生方が、肝臓や胃粘膜、小腸粘膜の微小循環を扱っているのをとても羨ましく思いました。ある時、「僕にも肝臓をやらして下さい!」と懇願しましたが、「何が判る!腸間膜でないと判らないことをやれ!」と言われて途方にくれました。

 「腸間膜でないと判らないこと」というのは後から考えると血管内皮細胞と白血球、血小板、あるいは血管外に散在する肥満細胞などの相互作用のことでした。実験は辛かったですが、ふとしたきっかけで自分の研究生活を決定づける実験結果に出会いました。私は元々天文学や西洋占星術に興味があったのですが、1986年に76年ぶりに地球に戻ってくるハレー彗星のニュースを見ている際、EUの無人宇宙船が彗星のガスの分析のために、浜松ホトニクスの高感度カメラを積んで打ち上げられることを知りました。活性酸素は「化学発光」を使うとその存在を可視化できることを知っていたので、世界一感度のよいカメラで真っ暗闇の中で自分の好中球を培養し、刺激を加えれば活性酸素を化学発光としてリアルタイムに画像化できるはずだと考えました。土屋教授が晝馬輝夫社長(当時)に紹介状を書いてくださり、社長が高価なカメラとそれを顕微鏡に繋げるアタッチメントを貸して下さったおかげで、zymosanの微粒子を貪食する単一好中球が接触面で形成される食胞から線香花火のように化学発光をバーストする様子をビデオに撮ることができました。同じような現象はラットの腸間膜で炎症を起こし、好中球が血管内皮細胞と接着する場所でも活発に起こることが画像化できました。

 写真は昔信濃町界隈にあった「光亭」という超一流の料亭での研究室の先生方との写真で、海外からのお客様が来た時のものです。私が大学院の3年頃の写真です。白血球のoxidative burstのリアルタイム画像を16mm映画に起こし、「光」という名前のついた料亭で外国の研究者に見てもらうのを土屋教授は楽しみにしてくれるようになりました。たまにあるこういう機会で日ごろの苦労と疲労は消え去りました。1987年に長男が生まれましたが、この実験成果にちなんで、まだ男女がどちらかわからない時に、先生の「ご命令」で「慧」(彗星にちなんで)という名前をいただきました。

 その後、生体内で生成される得体のしれない揮発性低分子ガスとその不可思議な受容体の関係を調べることが、内科学教室さらには生化学(医化学教室)に移籍してからのライフワークになりました。「よい酸素」「悪い酸素」、酸素からできるNOやCOのようなガス分子にそれぞれ特異的な受容体があることがだんだん解明されていきます。酸素は医師になって初めて使う大切な「薬」ですが、それが使いようによって毒性も発揮することを理解しました。さらに正常の組織と虚血病態あるいはがんの組織では、それぞれ特徴的な酸素代謝が行われているので、そこからできるその他のガス分子の生理活性は当然異なることになります。師の言うとおり、「解剖学的構築を破壊せず、生理的機能を阻害するようなラベルを可能な限りつけずに真理を探究する」ことが必要になりました。それはなかなか難しいですが、科学技術振興機構(JST)のERATOでやらせていただいている「末松ガスバイオロジープロジェクト」で開発した定量的質量分析イメージング技術はそのような理想に一歩近づいた技術開発です。疾患マーカーやがんの代謝プロファイルの研究から新しい創薬に貢献できる研究ができるようになると信じております。

 今年は土屋教授が2001年4月7日にご逝去されてから13回忌の年です。若いphysician scientistを益々養成しなければなりません。


【略 歴】 
昭和51年3月 千葉県立千葉高等学校卒業
昭和58年3月 慶應義塾大学医学部卒業
昭和63年4月 慶應義塾大学助手(医学部内科学教室)
平成3年5月 カリフォルニア大学サンディエゴ校応用生体医工学部バイオエンジニア
平成13年4月 慶應義塾大学教授(医学部医化学教室)
平成15年4月 文部科学省リーディングプロジェクト「細胞・生体機能シミュレーションプロジェクト」拠点代表者
平成19年6月 文部科学省グローバルCOE生命科学「In vivoヒト代謝システム生物学拠点」拠点代表者
平成19年10月 慶應義塾大学医学部長
平成21年10月 科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業(ERATO)
「末松ガスバイオロジープロジェクト」研究統括