大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第18回*   (H25.7.19 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は滋賀医科大学理事・副学長の 服部 隆則 先生です。
  「研究医への道」

      
                 滋賀医科大学理事・副学長 服部 隆則 (病理学第一講座前教授) 
        

ボン大学病理学研究所のPeter Gedigk教授と
学生のころ
 私は1970年3月に京都府立医科大学を卒業した。当時のカリキュラムは2年間が教養、2年間が基礎医学、2年間が臨床医学とはっきりと分かれていたので、それぞれの過程で目標を定め、勉強していたように思う。教養では語学、基礎医学では生化学や病理学に興味をもっていた。生化学では生命現象を化学式で説明される点に、病理学は病気を形でみることに興味があり、将来、このような領域に進みたいとも思い、関連の研究室に出入りしていた。臨床医学過程は臨床入門コース、謂わば総花で、最後の2年間は特に何かに興味をもつことはなかった。
 今、思い起こせば「何だったのか?」と問うてみても、誰も何の解答も出せないのであるが、4学年後半頃から大学紛争が勃発し、5学年の殆どの期間大学が閉鎖され、勉学どころではなく、郷里に帰り、趣味の勉強をするしかなかった。読書以外では、オペラの研究、特にワーグナーに傾倒した。後に、これが私の魂に一部になったことは良かったのであるが、ドイツ語の原典を読むにつれ、将来、ドイツに留学しようと思うようになった。
 大学紛争が終息に向かうと、突貫工事のような、数合わせの臨床実習がなされ、ぎりぎりの単位取得で卒業させられた。何を専攻するか、どこで研修するか、全く、暗中模索の時代であった。卒業生の多くが大学を離れた。しかし、一方で、大学再建の方向として、紛争後の新しい大学院の在り方なども議論されるようになり、大学院進学をも考えてみるようになった。
 外科医か内科医になるか、病理学をやるか、最後まで迷っていたが、京府医大の病理学教室の研究テーマが"細胞の増殖と分化"であり、まずは、"癌も含め、増殖と分化の研究"に賭けてみようと思った。大学院修了後、教育職に就くと返済が免除される日本育英会の奨学金制度が進学の一助となった。臨床への転向は大学院修了後に再考することとした。


大学院での研究
 「胃癌をやったらどうだ」と教授に言われ、胃癌研究が私のライフ・ワークとなった。しかし、当時、大学院といっても、紛争後の混乱期で、大学院生と教官が共同でカリキュラム等を創造していかなければならなかった。半年ほど、幾つかの基礎医学講座を廻り研究手法を学んだ。その後、何をやるか考えた挙げ句、胃粘膜の細胞動態を解明しようと思い、研究に取りかかった。当時、京府医大の病理学教室は3H-thymidineのオートラジオグラフィー研究のメッカであったので、これで胃底腺粘膜と幽門腺粘膜の細胞動態を研究した。学位論文と関連論文は憧れのドイツのジャーナルに投稿したが、胃底腺の壁細胞や主細胞、幽門腺のガストリン細胞の更新様式の論文は今でも引用されている。これが一つの成功体験となり、その後、胃癌の発生母地である慢性萎縮性粘膜の細胞動態、腸上皮化生の発生様式などについても国際誌に発表することができた。これらの業績が一定の評価を受け、ラッキーなことに、大学院4年生の時に、当時の文部省がん特別研究の太田邦夫班(胃癌研究)の班員に加えていただき、研究者への仲間入りができたのである。この班には病理学者だけでなく、内科や外科の高名な研究者も参加しており、学問は総合的に進むことを実感した。


助手、助教授から教授へ
 大学院修了時には、"さあどうしよう"と考える間もなく、教授から助手になれと言われた。病理学には人体病理学と実験病理学があるが、当初は実験病理学を主にしていたが、胃癌研究では人体病理学が必要である。助手3年目に、たまたま、京都市内の病院に病理医として出向しなければならなくなり、人体病理学にも染まっていった。1974年に福井医科大学が設立され、そこの助教授になるように大学から要請され、福井医大に赴任した。開学一年目の仕事は3年後の病理学講座開設の準備であったが、助手時代からドイツ留学の準備を進めていた。同年、ラッキーなことにドイツ・フンボルト財団の奨学生に選ばれ、ボン大学病理学研究所に留学することになった。ボン大学では胃潰瘍修復と胃と大腸の実験発癌を手掛け、6編の論文を発表した。ドイツの生活では、私の魂の一部であるオペラの勉学をも発展させることができた。
 留学から戻ると講座開設の実務が待っていたが、それを何とかこなすと、後は学生講義と附属病院の病理解剖だけがノルマで、後の時間はすべて研究のために使えた。恩師に言われたことで今でも印象に残っているのは、「基礎医学研究者には時間がある、時間を金で買っていると思えば我々は臨床医よりもずっと裕福と言える」という言葉である。自分に続く後輩達にもこの言葉を贈り続けてきたが、研究医になって以降、精神的に豊かさを実感してきた。

  1989年には、ラッキーなことに、滋賀医大の教授にしていただき、現在に至っている。胃癌病理の研究は、日本が先んじていることもあって、自分なりにうまく展開できたと思っている。国際的に、胃腺癌が腸型で腸上皮化生から発生するとされているが、実際には、胃癌は胃型癌なのである。今、研究者としてのキャリアーが終わろうとしているが、ラッキーなことに、2011年出版のWHOのブルー・ブックの胃癌のチャプターを共同執筆し、新しい分類学を記載することができた。
 病理学には基礎と臨床の両面がある。病理診断は臨床を支える仕事ではあるが、病理医は、ややもすると"絵合わせ的な診断"に終始してしまう。しかし、望むらくは、診断には重みが必要で、それを支えるのは思考力と研究力である。私は、上に書いた何度ものラッキーのお陰で、よき研究生活を送ることができた。生まれ変わってももう一度病理学を専攻しようと思うが、多くの若い医学生が研究医の道を進まれることを望むところである。研究は本当に楽しいのである。


【略 歴】 
1970年 京都府立医科大学卒業
1974年 京都府立医科大学大学院修了、医学博士

第二病理学教室助手
1979年 福井医科大学病理学第一講座助教授

フンボルト奨学生として西ドイツ・ボン大学病理学研究所に留学
1989年 滋賀医科大学病理学第一講座教授
2008 滋賀医科大学理事・副学長