大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第19回*   (H25.9.19UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は神戸大学医学部長の 片岡 徹 先生です。
  「基礎研究者を志すに至ったころ」

      
                 神戸大学医学部長 片岡 徹 (大学院医学研究科分子生物学教授) 
        

ハーバード医科大学での筆者の研究室(1987年頃)。中央が筆者、右側が玉沖達也博士、左側が田中秀穂博士

学生のころ
 私は、中学・高校生の頃から医学・生物学関係の一般向けの新書・叢書等を読み漁り、治療法の無い病気(ウイルス病とか癌とかが念頭にあったと思います)の研究に進みたいという漠然とした思いを抱いていました。1971年に東京大学医学部医学科に入学しましたが、教養学部時代は授業料値上げ反対ストライキ等で授業のない期間が長く続き、ノンポリ学生の私は、本を読むのにも飽きて、手を動かして実験する研究活動に参加したいと願うようになりました。3年次初めの生化学の講義で、当時栄養学教室教授を兼任しておられた早石修先生(京都大学医学部教授)が、Banting & BestやLesch & Nyhanの業績に触れ、「医学部学生でも世界的な仕事ができる。興味ある学生は研究にいらっしゃい。」と言われるお言葉を真に受け、講義後その足で「何か研究させてください。」とお願いに行ったのが、私が基礎医学研究に入った端緒です。当時、この早石先生の”ご勧誘”に乗ってか、教室に入り浸っている上級生の方々もおられ、酵素反応速度論の勉強会等を行っていた記憶があります。5年次までは、講師(途中から浜松医大教授)の市山新先生のお世話になり、断続的にではありますが授業をサボって実験しておりました(近年の厳しい医学教育環境下では困難だと思います)。途中、フリークォーター(基礎配属実習)では、薬理学第一教室の江橋節郎教授のお世話になり、奥様(文子先生)とご一緒に文字通り研究に身を捧げておられるお姿を間近で拝見し感銘を受けました。6年次になり、ちょうど、早石先生の弟子である本庶佑先生が米国から帰国され栄養学教室助手に就任されました。当時揺籃期であった「真核生物の分子生物学」に興味を抱いていた私は、その日本での草分けである先生の許に弟子入りし、当時東大医学部ではかなり稀なことでしたが、卒業後直接基礎医学系大学院に進学しました。以前から京大医学部では、卒業後に基礎医学(特に医化学教室)の大学院へ進まれる方が多くその豊富な人脈に一部でも触れられたこと、ならびに、東大の江橋先生の許で基礎医学に進まれた先輩方とお会いできたことが、私が「基礎研究医」として孤独を感じることがほとんどなかった理由だと思います。諸先生方の薫陶を受け、ハードワークも当たり前のように考えていました。大学院時代には、遺伝子クローニング技術等の進歩の波に乗り、beginner’s luckもあって、免疫グロブリン重鎖遺伝子の「クラススイッチ組換え」の発見を成し遂げることができました。1981年4月本庶先生の大阪大学医学部教授就任に伴い、私を含む5名の大学院生が大阪大学大学院医学研究科に転学しました。東大医学研究科の大学院生が他大学へ移るということは当時では極めて稀でかなり問題になったらしく、今から考えると無鉄砲なことをしたものだと冷汗の思いです。

癌遺伝子研究への転進
 学位取得後大阪大学助手となり、しばらく免疫グロブリン遺伝子の組換えの分子機構の研究に従事しましたが、方法論的に限界を感じました。また、精神的かつ肉体的に疲労が蓄積気味であったこともあり、「頭が柔軟でハードな実験ができる若いうちに独立して、自分のアイデアで世界を舞台に勝負したい」という思いが次第に募ってきました。よって、かねてから興味を抱いており当時急速に勃興してきた分野である癌遺伝子の研究に従事すべく、1983年10月より米国コールドスプリングハーバー研究所のMichael Wigler博士のもとへ留学しました。幸運にも、ちょうど同研究所で開発された酵母遺伝学を取り入れ、出芽酵母Rasの発見と機能解明(アデニル酸シクラーゼの活性制御)に成功しました。また、ヒトと酵母のRasの機能互換性の発見は、モデル生物としての酵母研究の隆盛の嚆矢となりました。二つの教科書に載る仕事を成し遂げたことが評価され、ハーバード医科大学から招聘を受けて1986年2月にassistant professorに就任し、完全に独立した研究室を構えることができました。しかし、独立に向けてRO1グラントを申請するにあたり、自分がそれまで、与えられた目先の研究目標に向けて齷齪として実験を行ってきた(予想外の発見には遭遇しましたが)のみで、広い学問的視野に立って独創的な研究課題を模索するトレーニングを積んできていないことに気付かされました。また、そのための重要な要素である、分野の異なる研究者達と積極的に交流してアイデアを交換するという心掛けやそのための人脈を持ち合わせていないことも実感されました。結局あまり先が見通せなくて、多数の強力な研究グループともろに正面衝突コースをとる研究課題を選択する(方法論的には独自の工夫を入れましたが)こととなり、グラントには採択されたものの、当然というべきかほとんど勝てませんでした。この苦い教訓から、他の研究者が開拓した課題の追随研究は極力避け、自らが見つけた材料や現象をもとに独自の研究を展開することをその後の基本的態度としています。
【筆者略歴】 

1977年 東京大学医学部医学科卒業
1981年 大阪大学大学院医学研究科修了(医学博士)
1981年  大阪大学医学部助手(遺伝学講座) 
1983年  米国コールドスプリングハーバー研究所客員研究員 
1985年  米国コールドスプリングハーバー研究所研究員 (真核生物分子遺伝学部門) 
1986年  米国ハーバード医科大学アシスタントプロフェッサー(分子細胞生理学講座) 
1989年 神戸大学医学部教授(生理学第二講座)
2001年 神戸大学大学院医学系研究科教授(分子生物学分野)
2013年 神戸大学大学院医学研究科長・医学部長