大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第20回*   (H25.11.18 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は愛媛大学医学部長の 安川 正貴 先生です。
  「臨床医が基礎研究から学んだこと」

      
愛媛大学大学院医学系研究科長・医学部長 安川 正貴 (血液・免疫・感染症内科学講座教授) 
        
  国内留学していた当時の東京医科歯科大学難治疾患研究所人類遺伝学教室の面々。
笹月健彦教授(現九州大学高等研究院特別主幹教授)(後列右端)のご指導の下、西村泰治先生(現熊本大学教授)、太田伸生先生(現東京医科歯科大学教授)、武藤正彦先生(現山口大学教授)たちが研究に励んでいた。前列右から3人目が筆者。
 
 私は内科を専門とする臨床医ですが、若いころ基礎系教室での研究生活や海外留学を経験することができました。ここでは、そのような体験を通して感じた研究の魅力、またその経験がその後の臨床の場でいかに役立ったかという事について書かせていただこうと思います。
 私は医学部卒業後直ちに、地元の新設愛媛大学医学部内科学教室に入局しました。当時は研究室の設備も十分でなく、教授をはじめ医局の先生方は教室の立ち上げに大変ご苦労されたようです。ただ、それまで何もなかった分、若い医局員はむしろ自由闊達に仕事ができたような気がしています。2年間の臨床研修が終わった頃に突然教授に呼び出され、今免疫遺伝学という面白い学問が発展しつつある、アメリカでこの分野の最先端の研究をやってこられた笹月先生という教授が日本に戻ってこられたので、そこに勉強に行って来いと言われました。当時は臨床医もほとんどが研究に励み、学位を取得して、それからどう進路を決めるか、それも自分で決めるというより、教室人事で動くのが当たり前の時代でした。先輩の先生からは、いずれ大学を出て行けと言われるのだから、それまでは自分から大学を辞めますとは決して言うな、そんなことしたら地元で医者はやってゆけないぞと注意されていました。今の教授も一度はそういう事を口にしたいものです。
 さて、何も分からないまま、東京医科歯科大学難治疾患研究所人類遺伝学部門に国内留学しました。御茶ノ水周辺で下宿先を探したのですが、当時の給料では生活できないほど家賃が高く、知り合いを伝手に中野新橋に裸電球の4畳半一間のねぐらを確保することができました。当時、神田川というフォークソングが流行っていましたが、まさにそのような貧乏研究生活が始まりました。当時笹月健彦教授はまだ30代後半で、笹月研は、全国から集まった精鋭の大学院生の熱気が溢れかえっていました。基礎系教室ですので朝は少々遅いのですが、夜はまさに不夜城、毎日酔っぱらいのおじさんと水商売のおねえさんで込み合う地下鉄丸ノ内線最終電車で帰宅していました。御茶ノ水駅から正面に笹月研の研究室が見えるのですが、いつも夜遅くまで電気が付いているので、何やら怪しい若者のアジトになっているのではないかと当時の文部省で話題になったとも聞きました。私はここで、ヒトT細胞応答のHLA拘束性についての研究に日夜没頭しました。まず研究室に行くと自分の採血をして、それを材料に実験を行うものですから、腕に採血の痕が絶えず、その痕はいまだに残っています。当時から笹月先生はお忙しくされていましたが、国内外から最新情報を集めて来られ、熱いラボミーティングが繰り広げられていました。東京医科歯科大学での研究は比較的短期間でしたが、私にとっては大変刺激的で、研究マインドが大いに養われた貴重な経験となりました。

 愛媛大学に戻り、東京で学んできた知識と技術を駆使して、何とか学位論文を纏めることができました。研究の面白さも分かってきて、臨床との掛け持ちも苦にならないと感じるようになってきた頃、笹月先生から電話があり、ミネソタ大学で日本人のポスドクを探しているので行ってみないかとのお誘いがありました。折角の機会ですので、是非行かせていただきたいと申したところ、向こうの先生から電話で口頭試問があると伺い、少々戸惑いました。知り合いがすでに同じラボに留学していたので連絡したところ、予め話すことを英語で書いておき、それを捲し立てるように喋れと指示され、そのようにしたところ、無事パスしました。後で知ったことですが、実は3人の日本人候補者がいて、他の方たちは突然電話がかかってきたのでしどろもどろだったようです。事前の策が功を奏したのか、お前だけが言っていることを理解できたので採用したと後で聞きました。直接の上司であるZarling先生は、ヒトT細胞とNK細胞に関する仕事を立て続けにNatureに出されていた新進気鋭の研究者で、ポスドクを初めて採用するとの事で随分意気込んでいたようです。幸いここで学んだヒトT細胞クローン樹立技術がその後の研究の基本になり、大いに役立てることができました。

 帰国後は、臨床と研究とで忙しい毎日でしたが、それまでの基礎研究の経験が様々な疾患の病態への疑問と新規治療法開発への興味に結び付き、それまで治療は無理とされてきた輸血後GVHDの治癒、薬剤性過敏症症候群発症機構におけるHHV-6関与の証明など、臨床分野にも多少貢献できたのではないかと思っています。また、米国留学時に学んだ研究技術をもとに、現在白血病に対するT細胞レセプター遺伝子導入による免疫遺伝子治療の臨床研究を開始することができたことも研究成果の蓄積の結果と思っています。
 最後に、この文章を読んでいただいた学生と若手医師の方々に一言メッセージを送ります。名医とは、その時点でのマニュアルやガイドラインを遵守し、標準的治療を確実に実践できる医師のことだけだと思っているのではないでしょうか。しかし一方で、なぜ難治性疾患の治療成績がこれほどまでに向上したのかと思いを巡らすことも大切でしょう。そこには新たな診断法や治療法の開発に向けた先人の絶え間ない努力があったし、基礎医学の進歩、基礎研究成果の大きな貢献があったと思います。若い皆さんには、現在の難病の治療成績をさらに向上させる責務があります。そのためには、各症例の病態生理を詳細に理解しようとする姿勢、素朴な疑問を持つこと、新たな知見への興味と感動、新規治療戦略へのチャレンジ精神などが求められると思います。これからの医学・医療の発展に研究マインドを持って尽くされることを大いに期待しています。


【筆者略歴】
昭和52年 秋田大学医学部医学科卒業

昭和52年 愛媛大学医学部第1内科(小林 讓教授)入局
昭和54年 東京医科歯科大学難治疾患研究所人類遺伝学教室(笹月健彦教授)で研究に従事
昭和57年 アメリカ合衆国(ミネアポリス)ミネソタ大学免疫生物学研究所(Joyce Zarling准教授、
      Fritz Bach教授)で研究に従事

昭和62年 愛媛大学医学部附属病院輸血部講師
平成 3年 愛媛大学医学部内科学第一講座助教授
平成17年 愛媛大学医学部内科学第一講座教授
平成18年 愛媛大学大学院医学系研究科生体統御内科学分野教授(大学院部局化による名称変更)
平成23年 愛媛大学医学部長・大学院医学系研究科長
平成25年 愛媛大学大学院医学系研究科血液・免疫・感染症内科学講座教授(教室名称変更)
現在に至る