臨床医としてのスタート
私は北海道大学医学部を1979年に卒業し、北海道大学小児科に入局した。小児科には、心臓,神経、代謝、新生児、遺伝,感染症,血液・腫瘍、腎臓など10の専門分野のグループがあり、1年間かけて全グループをローテートした。その後、1年間、市立美唄(びばい)病院の小児科医として研修を受けた。美唄市は札幌と旭川の間にある小都市で、市立美唄病院には私を含めて3人の小児科医が常勤であったが、当時は新生児疾患治療のためのレスピレーターやCPAPはなく、在胎26−27週未満の未熟児が生まれても呼吸管理すらできず、悲しい、残念な思いをした。そのこともあって、NICUのある病院で新生児医療を学ぼうと思い、翌年から函館中央病院に2年間勤務した。この2年間はNICUでの新生児医療だけでなく、血液腫瘍疾患、内分泌疾患、免疫アレルギー疾患など多くの患児を診ることによって学ばせていただいた。函館中央病院には函館市内だけでなく、北海道南部の渡島支庁全域から未熟児が救急搬送され、NICUは常に満床であった。産婦人科病院で未熟児が生まれる可能性があるとの連絡を受けると、搬送用のインキュベータを持って、産科病院の分娩室に直行し、分娩に立ち会い、呼吸困難の新生児にその場で気管内挿管してNICUに搬送した。当然、NICUに泊まることも多くて、忙しかったが、充実した2年間であった。当時は、現在使われている人工サーファクタントはまだ一般病院では使われておらず、RDS
(Respiratory Distress Syndrome)の患児の呼吸管理が治療の中心であった。肺の未熟性のために呼吸困難になり、気管内挿管せざるを得なくなったベビーの母親に、肺が未熟なので肺サーファクタントという物質ができてなくて、息を吸っても肺が広がらず、肺に空気が入れなくて、呼吸困難になることを話したところ、肺サーファクタントとは何でしょうかとさらに質問を受けた。教科書的には、dipalmitoyl
phosphatidylcholine (DPPC)が主成分の生理活性物質で、表面張力低下作用を有するとしか記載がなく、母親の質問に答えられない自分が如何に無知であるかを改めて思い知らされた。北大小児科では卒後5年目頃に、小児科の中の専門分野を決めることになっていたが、迷わず、新生児班に入ることとして、そのチーフであった稲川昭先生(現・室蘭市医師会長)に、サーファクタントの生化学的研究を行っている札幌医科大学の生化学教室をご紹介いただいた。サーファクタントのことを聞いてくる母親と稲川先生との出会いが、研究医への道を開いてくれたと思う。
研究医としてのスタート
1983年4月、札幌医科大学生化学第一講座(現・医化学講座)で研究生活がスタートした。当時の秋野豊明教授(札幌医大元学長)は、lipid biochemistで、肺のリン脂質代謝の側面から肺サーファクタントを研究しておられた。肺サーファクタントの主成分はDPPCであるが、ごく僅かに特異蛋白質が存在することが示唆された時期で、秋野研究室でもサーファクタントアポ蛋白質(現在はSP-Aと呼ばれている)の精製に取りかかっていた。当時,秋野研究室の助手であった深田吉孝先生(現・東京大学大学院理学研究科教授)に蛋白質精製の方法を学んだ。サーファクタントは胎生期に徐々に増え、full
term近くになると十分量が肺胞腔に分泌され、肺胞の全表面を覆おって、呼気時の肺虚脱を防止している。出世前は、サーファクタントは肺から羊水中に吐き出され、full
term近くの羊水中にはサーファクタントが存在している。サーファクタント量の不十分な未熟児では肺が虚脱してしまい、出席直後から呼吸困難となる。小児科医としては、未熟児が出生しそうになる切迫早産の際に、羊水中の肺サーファクタントアポ蛋白質を測定することで、出世前の肺成熟度を評価できるのではないかと考えた。そこで、アポ蛋白質の単クローン抗体を作成することが私の最初の研究プロジェクトとなった。このプロジェクトがうまく行けば、未熟児や切迫早産の治療など周産期医療に役立てられると思い、嬉々として、モノクロづくりに励んだことをよく覚えている。幸いなことに、2種類の単クローン抗体が作成できて、sandwich
ELISAによるアポ蛋白測定法を確立することができた。
単クローン抗体の作成に成功した頃に、ほんとに偶然であるが、米国デンバーにあるNational Jewish Center for Immunology
and Respiratory MedicineのRobert Mason教授が京都でのinternational cell biology
meetingで来日された折に札幌まで来られた。国際的にサーファクタント研究で著明なMason教授と秋野教授は研究を通じてお互いに尊敬し、良好な関係であった。生化学教室で教室員が自身のプロジェクトをプレゼンする機会があったが、私のつたない英語によるプレゼンテーションを聞いてくれたMason教授は単クローン抗体作成を大変喜んでくれて、翌日には、秋野教授に、自分の研究室に来ないかと米国への留学を勧めてくれた。基礎医学研究ののちは臨床に戻り、小児科医として生きようと思っていたので、Mason教授からのお誘いは、まさに、青天の霹靂であった。その翌年には、Mason教授の研究室に留学し、そのsupervisorとして、Dennis
Voelker博士を紹介された。彼はlipid biochemistであったが、サーファクタントアポ蛋白質に興味を持っていた。Mason教授が初めてその分離方法を確立した肺胞II型細胞におけるアポ蛋白質の機能に関する研究を3人でスタートさせた。デンバーでの研究は、basicで、
サイエンスの面白さに取り憑かれた。ここでは、Mason先生とVoelker先生との出会いが、生化学者としての研究医への道を開いてくれたと思う。小児科医として臨床に戻ることも考えたが、3年間の留学後は、札幌医大の秋野研究室に戻ることを選択し、研究医としての道を歩んだ。
人との出会いにより、基礎医学研究に入る機会を得て、さらに、研究者との出会いが研究医として進むべき道、研究の面白さを教えてくれたと思う。
大学卒業後の35年間を振り返ってみると、人との出会いが自分の進むべき道を開いてくれたと思う。幸運な、人との出会いであったが、それを大切に思う気持ちを持つことも大事だと思う。
【略歴】
1979年 北海道大学医学部医学科卒業
北海道大学医学部小児科学講座 医員
(北大病院、市立美唄病院、函館中央病院にて実地修練)
1983年 札幌医科大学生化学第一講座 助手
1985年 米国National Jewish Center for Immunology and Respiratory Medicine 研究員
1988年 札幌医科大学生化学第一講座 助手
1989年 札幌医科大学生化学第一講座 講師
1991年 札幌医科大学医学部生化学第一講座 助教授
1998年 札幌医科大学医学部生化学第一講座 教授
2008年 札幌医科大学医化学講座 教授(講座名称変更による)
2010年 札幌医科大学医学部長
|