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学生の頃
私は昭和52年(1977年)に鹿児島大学医学部を卒業し、大阪大学大学院医学研究科博士課程に進学した。学生時代から免疫学に興味を持ち、医学部2年次の時に、同級生と免疫学の勉強会を作った。当時、免疫学という学問は未だ樹立されておらず、細菌学の教科書の最後のあたりに、抗体とクローン選択説のことが少しだけ紹介されている程度であった。謎だらけの世界に強い好奇心が沸いた。
そこで、我が国で入手できる東京の某出版社から発刊されていた免疫関係の本を買いあさり、数人の学生で熟読したが、消化不良で終わってしまった。その後、勉強会は解散。ひたすら趣味の登山と読書で学生時代を過ごした。卒業前、免疫学を目指す学生が大阪大学第三内科(山村雄一教授)のもとに全国から集まっているという情報を得て、迷わず山村教授の門を叩いた。教授の許可を得て、大阪大学大学院医学研究科博士課程に入学した。ちょうどその時期に、岸本忠三教授がアメリカ留学から帰国され、岸本先生の第一期の門下生となった。岸本研には免疫学を目指す若い同僚が沢山いて、切磋琢磨しながら免疫の研究に没頭できた。昼夜、研究する毎日だったが、新しいことを知る喜びがあり、また実験が楽しく、思い出せば充実した時間だったと思う。博士課程修了後は、多くの同僚達がそうしたように、自然に外国留学の道を選んだ。
アメリカ留学
留学先は、米国メリーランド州ベセスダ市にある国立衛生研究所(NIH)の臨床免疫学の巨匠、A. Fauci教授の研究室であった。同じビルディングの、同じフロアに、基礎免疫学の巨匠であるW.
Paul教授の研究室があり、二人の教授は昵懇の仲であったので、私がNIHで基礎免疫と臨床免疫の巨匠の研究室を行き来しながら研究ができたのは、非常に幸運であった。NIHの道路の向かいに、米海軍病院があり、その病院の耳鼻咽喉科で扁桃摘出術を受けた兵隊さんの「どでかい扁桃」をアイスボックスに入れて研究室に持ち帰り、それを材料にしてヒトBリンパ球の分化因子の研究を行った。NIHでは若い研究者が好きなだけ研究できる環境があって有り難かった。建物の地下にある売店に行けば、必要な試薬を売っていて、サイン一つで、全てのものが無料で手に入った(もちろん、後日に研究室に請求書が回っていた)。実験結果について、二人のボスはいつでもフレンドリーにミーティングに応じてくれ、必ず適切なアドバイスをもらうことができた。NIHには、世界からトップレベルの研究者が集まり、ライフサイエンスの分野で世界をリードしていた。NIHに留学して、すばらしいボスと巡り会え、世界の多くの研究者と交流でき、思う存分米国での研究生活をエンジョイできたことは、留学の大きな成果であったと思う。
帰国後、研究医から臨床医、そしてまた研究医へ
留学を終え、大阪大学細胞工学センターの岸本忠三教授の下で助手(現在の助教)としてBリンパ球の分化の研究をすることになった。そこでは、抗体遺伝子の再構成について研究を開始したが、分子生物学の先端技術の習得に苦労した。そのまま、基礎研究を続けるかと思ったが、臨床免疫の研究者になるためには臨床経験が必要であると教授から勧められ、臨床医を目指して、兵庫県伊丹市の近畿中央病院で免疫・アレルギー科の医師になった。何しろ、アルバイトでしか臨床をしていなかったので、臨床経験はほとんど皆無であったが、多くの膠原病やアレルギー患者を受け持ち、大いに勉強になった。3年ほど臨床医として勤務したが、今度は佐賀医大の血清免疫学(木本雅夫教授)の下で助教授(現在の准教授)として研究することになった。そこでは、大阪大学で始めたB細胞の初期分化の研究に取り組んだ。木本教授は、研究は楽しむものというスタンスでいたので、佐賀ではじっくりと研究を楽しむことができた。B細胞の前駆細胞株を樹立し、適当な刺激を加えると神経細胞そっくりの細胞になったので、びっくりした。これが生命の常識を覆す「細胞の初期化現象」であったのかと、今になって懐かしく当時を振り返る。因みに、この発見は論文にならなかった。佐賀に赴任して2年後に、富山医科薬科大学(現、富山大学)医学部の細菌免疫学講座(現、免疫学講座)に教授として採用され、昔は苦手であった遺伝子工学技術を駆使して、抗体医療、T細胞免疫治療の研究(※)に従事している。研究内容は、免疫学のトランスレーショナル研究(臨床への橋渡し研究)であり、自分の歩んできた基礎研究と臨床経験が繋がったものと思っている。
※参考文献 Jin A. et al. Nature Medicine 2009, Jin A, et al. Nature Protocol
2011, Kobayashi E. et al. Nature Medicine 2013
終わりに
全国の医学部において、研究医養成が喫緊の課題となっている。最近の医学部卒業生はほとんどが臨床に進み、専門医を目指す。基礎医学(大学院)に進む研究医が枯渇し、基礎医学の崩壊が危惧されている。しかし、若い学生に向かって、将来、研究医を目指すか、臨床医を目指すか、すぐに選択しなさいとは言えない。研究者になりたければ、学生の時から研究の道を進めば良いし、臨床医になって臨床を経験してから基礎医学の研究へ進む道もある。要は、研究心や好奇心を持っていれば、いつでも研究に進むことができると思う。しかし、やはり、研究の楽しさ、達成感、満足感は、感性が強い若い学生時代に味わったほうが良い。現在、我が国の医学部が取り組む「研究医養成プログラム」に参加すれば、そのことを実感できるのではないかと思う。
【筆者略歴】
1977年 鹿児島大学医学部 卒業
1981年 大阪大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)
1981年 アメリカ国立衛生研究所(NIH)研究員
1984年 大阪大学細胞生体工学センター免疫部門助手
1988年 近畿中央病院内科医長
1990年 佐賀医科大学免疫学助教授
1991年 富山医科薬科大学(現・富山大学)医学部免疫学教授
2009年 富山大学医学部長
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