大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
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脳神経外科医にとっての基礎研究 順天堂大学大学院医学研究科長・医学部長 新井 一(脳神経外科学教授) |
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Fig.1 NIH, NINCDS, Laboratory of
Neurochemistryの面々(1980年) |
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私が医学部を卒業したのは昭和54年ですが、卒後どのような進路に進もうかと悩んだ末に脳神経外科の門を叩くことにしました。当時、順天堂大学の脳神経外科学講座は石井昌三教授(故人、学校法人順天堂 前理事長)が主宰されており、昭和40年代に本邦に導入された顕微鏡下での脳神経外科手術(microneurosurgery)がまさに隆盛を迎えるという時期に一致していたためか、教室は活気に溢れていました。朝早くから夜遅くまで病棟や手術室での業務をこなす毎日でしたが、仕事が終わった後に手術のトレーニングの一環として、ラットの血管吻合を深夜の研究室で行うといったこともしばしばでした。新米の医師が顕微鏡の中央に座って手術を行うことなど叶うはずもなく、将来自立した脳神経外科医になることを夢みた日々が思い出されます。入局して半年が過ぎた頃に、教授室に呼ばれ海外への留学の話しをいただきました。留学先は米国NIH(National
Institutes of Health)、Neurochemistryの研究室とのことで、一人前の脳神経外科医になることを目指していた私としては正直面食らったことを記憶しています。結局、昭和55年の始めには米国Maryland州Bethesdaの地に赴き、2年と3ヵ月程を過ごすことになるのですが、NIHでは砂ネズミの脳虚血モデルを用いてそのエネルギー代謝を観察するという研究に従事しました(Fig.1)。留学生活は基本的には基礎研究が主体でしたが、時間を見つけては近隣の病院の脳神経外科のカンファレンスに参加したり、またWashington
D.C.にあるWalter Reed Army Medical CenterのAFIP(Armed Forces Institute of Pathology)ではAFIPが保有する膨大な脳腫瘍標本の勉強もしました。昭和57年に帰国、臨床に復帰して昭和60年に脳神経外科の専門医になるのですが、昭和62年から約1年間、自治医科大学の第一生化学教室に国内留学する機会を得ることができました。自治医科大学では香川靖雄教授(当時)のご指導をいただき、ミトコンドリアDNAのクローニングや細胞膜のカルシウムチャンネルの研究に関与し、その後順天堂大学に復帰してからは、臨床に従事し手術をしながら若い医局員とともに研究を行うという生活となりました。平成5年に順天堂大学脳神経外科の助教授に就任したのですが、平成7年には2ヵ月と短期間ではありましたが米国フロリダ大学脳神経外科で研究生活を送ることができました。そこでは自分自身の専門の一つになる眼窩内腫瘍の手術について、当時抱いていた疑問点を、cadaverを用いた同部の微小解剖によって明らかにしました。当時フロリダ大学脳神経外科の主任教授であったRhoton先生は脳神経外科学の巨人でしたが、同時にcadaverを用いた脳神経外科解剖の先駆者としても高名であり、僅かな時間ではありましたがそこで薫陶を受けたことは貴重な経験となりました。 |