大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第28回*   (H27.3.31 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は島根大学医学部長の 大谷 浩 先生です。
 「タマゴの殻が割れる時:啐啄同時あるいはご縁」
                    島根大学医学部長 大谷 浩(解剖学講座発生生物学 教授)
        
 

西村秀雄先生が勲二等瑞宝章を受章され、ご自宅にお祝いに伺った時の写真。前列真中が西村先生、
左が田中修先生、右は当時田中教室の院生でいらした篠原春夫先生(現東海学園大学)、後列が大谷

 
 私の場合、研究は自分なりの「医学」の一環として行っているつもりで、医学をそもそもなぜ選んだかというところから始めなければご理解いただけないかと思う。参考にはならないかと思うが、若い読者の方々に、ヒヨコになる前のタマゴが割れる時、研究の道に入る「ご縁」としてこんな例もあるということで読み流していただければ幸甚である。
 やたら早熟だったのか、中学の時「人類の未来」に絶望して(今も同様)、しかし生来要領もよかったせいか、それはそれとして全ては将来本当にやりたいことの基礎につながると、粛々と勉強を進めていた。高校の時、友人から仏教の本を薦められて読み、宗教としてではなく、その科学性、普遍性などに強い感銘を受けた。また偶然書店で見つけた現代文を徹底的に理詰めで読解する参考書に忠実に基づいて訓練するうちに、それまであいまいだった文章が明解に読解できるようになった。その頃独り相撲の失恋などもあり、やたら自省したりいわゆる名文を読んだりすることを通して、中学以来感じていた「人類の未来」への絶望の原因となっているのが、たとえ戦争や宗教や領土の対立でも、原発事故などによる環境破壊でも、全て当事者がその人なりに正しいと信じて頑張っていることの帰結であり、それはそれで人として生きていることをまず肯定すべきと思えるようになった。また人類が滅びようと、それは宇宙(今も私たちはその全容どころかごく一部しか知らない)の歴史の、そのまたほんの一瞬の光芒にすぎないという諦観にも至った。しかしそう考えた以上、では自分はどう生きるべきか、一人一人が一生懸命「とんがろう」とするのを俯瞰的に観たりつなぎ合わせたりして、少しでも全体としてのひずみを減らすような生き方ができればと考えた。いろんな進路を考えたが、結局人間を人文社会学的な人や自然科学的なヒトとして広く深く追求することができる医学を学ぶことを選び、京都大学に進学した。
 教養のころはフロイト、ユングに始まり、メルロ・ポンティ、中村元や鈴木大拙などの著作を経て、仏典を原典で読みたいとの無謀な希望から文学部に潜り込んでサンスクリット語を学び、インドの叙事詩を原典で読んだりしていた。1981年に医学部卒業後、まずは患者さんから臨床の場で心身について広く学ぼうと、当時まだ珍しくローテーションを行っていた京都大学病院内科での研修を選んだ。ほとんど病院で生活するような1年間の研修後、今でいう総合診療的臨床がしたかったため、中規模の地域基幹病院である国立姫路病院(現姫路医療センター)での研修を選んだ。ここでも日々とても多くのことを患者さんから学んだ。このわずか2年間の研修は、その後今に至るまで私が求め続けている「医学」のすべての基礎になっている。
 しかし一方、臨床の現場では当然ながらすべてが患者さんを中心に時間が動くため、一度頭が柔らかいうちに、研究の時間を取ってしっかり考えることをしたいと思った。できるだけ広くヒト・人を観えるような研究をしたいと情報を集め始めたが、希望に沿うものがなかなか見つからずにいた。ところが、丁度そのころ正に「ご縁」としか言いようのないいくつもの偶然が重なり、島根医大(現島根大学医学部)に赴任されていた解剖学の故田中修先生から、出雲で研究をしないかとお誘いがあった。先生は、京大先天異常標本解析センターの初代助教授から島根医大に助教授として赴任後教授に昇任され、急に空席となった助手の後任を探しておられたところであった。私個人は大学時代、すでに島根に移っておられた田中先生から、非常勤講師として骨学口頭試問などを受けたのみだったが、わざわざ姫路までお出でいただき研究の話をして下さった。
 田中先生の心酔される恩師である故西村秀雄先生(京都大学名誉教授)とその門下の先生方が蒐集された数万体にも及ぶ日本人の胚子・胎児からなるいわゆる「京都コレクション」と、それに基づく、西村先生が受賞された学士院賞の対象となったヒト胎生期の正常・異常発生に関する系統的な研究について、熱く夢を語って下さった。藪から棒のお話に驚いたが、1細胞に始まり小さいながらも個体全体である胚・胚子・胎児について遺伝と環境の両面から総合的に取り組む研究であり、正に自分の希望に合致した内容であると感じた。また、ご退職後、実験動物中央研究所の学術顧問となっておられた西村先生のところに勉強に行かせてやるというお話も、私にはとても魅力的だった。年度末でもあり、手続き上1週間で返事が欲しいとのことであった。田中先生は不思議な力をお持ちの先生で、京大助手時代、多くの優秀な学生さんが田中先生のところに何ということなく集まり、「田中ファミリー」を形成していた。そのメンバーだったテニス部の先輩や京大病院での研修医時代指導して下さった院生の方などに相談すると、どなたも田中先生ならと勧めて下さった。そこで、えいやっと基礎研究に移ることを決意した。
 以後、まずは教室で形態を徹底的に観ることから始めて、実験動物中央研究所では「自分は日の暮れ行く人間だから来ても仕方ないので自分のところだけにくるのならやめなさい」との西村先生のお言葉とご高配により、西村先生から人体発生学、先天異常学を学んだのに加えて、勝木元也先生、横山峯介先生からマウス発生工学を、その後留学した米国NIHでは2つの研究室でIL-2レセプター、Spemann organizerについて分子生物学を主に学んだ。いずれも「ご縁」というべき数多くの幸運に恵まれた充実した学びの機会だった。帰国後、ご恩返しに精を出しつつあった平成6年に、田中先生が急逝され、後任に任ぜられて現在に至っている。従って、教育は解剖学だが、研究としては発生生物学を軸にしつつ、今は数学なども取り入れながら、こだわり無く(全体視にはこだわりつつ)自分なりの「医学」を目指して進めている(最近の研究については教室HPをご覧いただければ幸いですhttp://shimane-u-developmental-biology.jp/)。駄文に最後までお付き合い下さったことに深謝申し上げます。

【筆者略歴】
1981年 京都大学医学部卒業
1981年 京都大学医学部附属病院内科研修医
1982年 国立姫路病院内科研修医
1983年 島根医科大学医学部解剖学講座第一助手
1989年 医学博士(京都大学)
1989-91年 米国NIH,NICHD,Cell Biology & Metabolism Branch(Dr.WJ Leonard)留学
1991年 島根医科大学医学部解剖学講座第一助教授
1991-93年 米国NIH,NICHD,Laboratory Molecular Genetics(Dr.IB Dawid)留学
1995年 島根医科大学医学部解剖学講座第一教授
2003年 島根大学医学部解剖学講座発生生物学教授
2005年 島根大学教育研究評議員
2009年 島根大学医学教育研究担当副学長
2010年 日本先天異常学会理事長
2011年 島根大学医学部学部長・研究科長