大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
|
研究医とダイヤモンド 三重大学大学院医学系研究科分子病態学教授 島岡 要 |
|||||||||||||||
研究者として独立して間もない2005年頃に撮ったバーバード大学医学部・血液研究所(現・ボストン小児病院・分子医学分野)の広報用写真。Timothy
Springer博士(左)、Leslie Silberstein博士(左から2番目)、Ulrich von Andrian博士(右から2番目)、Denisa
Wagner博士(右)らと私(中央)の5つのラボで細胞接着分子と炎症を研究する横のつながりを通じて、共同研究を盛んに行っていました。 |
|||||||||||||||
研究医としての道を歩み始めたきっかけ 私は学生時代は臨床医指向でした。学生時代の基礎配(学部4年生研究室研修)で生化学教室に所属し、ある酵素に対するモノクローナル抗体作成に取り組み、実験をエンジョイし研究生活に憧れた時期もありました。しかしその後、学部6年生の病院実習の時に、人工呼吸器につながれた重症患者を集中治療室で熱心に治療する麻酔科医の姿に強い感銘を受け、自分も麻酔・集中治療の分野でできるだけ多くの臨床経験を積んで、一人前の立派な麻酔科医・集中治療医になることを志しました。 卒業後は大阪大学医学部・麻酔集中治療医学講座に入局しましたが、研究指向の大学病院よりも、臨床症例が豊富で様々な経験を積むことができ、手技も身に付ける事ができると評判の大阪府立病院麻酔科(現・大阪府立病院機構・急性期総合医療センター)で研修を受けました。さらに大阪大学医学部附属病院・集中治療室でスタッフ医師として経験を積み、卒業後5年が経過したころには、重症患者の呼吸循環管理に関してかなりの自信を個人的には持っていました。しかしいくら呼吸と循環をサポートする治療を駆使しても、どうしても救命できない症例が敗血症性ショックでした。効果的な治療法がないまま、ただ呼吸と循環のサポートだけを続ける治療に当時はフラストレーションを覚え、長期的な視点のないまま臨床医としての仕事を、このまま続けることに少しずつ疑問を持ち始めました。 1990年代初めはインターネットが普及していなかったので、GoogleやPubMedで検索することもできず、大学の図書館で文献をしらべたり、学会に参加したりして、敗血症性ショックの病態を勉強していくうちに、さまざまな基礎研究や基礎研究に基づいた臨床治験が世界では行われていることを知りました。そして、「今日救えない目の前の患者を、明日救う」ためには、現状の治療法や治療薬にのみ頼るのではなく、新たな治療法開発のための不断の努力をしなくてはならないことを知りました。そのような活動の中心的役割を果たす研究医に自分もなりたいと思いました。そこで大学院に入学し敗血症性ショックの病態、特に炎症と組織傷害のメカニズムについての研究に携わる決意をしたのです。 研究医としての歩み 大学院では大阪大学微生物病研究所の本田武司教授(現・名誉教授)と清野宏教授(現・東大医科研所長)のもとで、細胞接着分子と炎症性肺障害の研究で学位を取得しました。大学院時代は毎日研究室に缶詰で,研究に没頭するという濃密な日々を過ごしました。その後、より広い世界を見てみたい、異なった環境で自分を試してみたいという思いからボストンへ留学し、バーバード大学医学部・血液研究所(現・ボストン小児病院・分子医学分野)Timothy Springer博士の研究室でポスドクを始めました。 当初は2-3年ほどで一仕事終えれば帰国し、臨床医に戻る予定でした。しかしある日突然、Fred Rosen血液研究所・所長に呼び出され、所内に助教授の空きポジションと空き研究スペースができたので、そこで独立してラボを持つことを薦められました。ひどく迷いました。独立後数年のうちに論文を発表し、グラントを獲得できなければ、解雇の可能性もあると聞きましたので、失敗する恐怖と不安に押しつぶされそうになりました。しかし日本の上司、先輩、知人に相談したところ、多くの方が背中を押してくれました。また米国でのグラント獲得や研究室運営については、ハーバード大のメンターであるSpringer教授や、先輩であるvon Andrian教授から、多くのアドバイスをいただきました。多くの方のサポートのおかげで、複数のNIHグラントを獲得し、一流誌にも自分の名前で論文を発表することができました。その後2011年に三重大学医学部に分子病態学・教授として赴任し、臨床と研究を橋渡しする研究医のひとりとして、日々精進しています。 まとめ 研究医としてのキャリアを歩むことはとても価値のあることです。臨床研修制度が“整備”され、また学会主導の専門医制度がますます“充実”するにつれて、有限なリソースである時間を研究のために割くことはますます難しくなります。どうあがいても1日は24時間、1年は365日、日本では医学部卒業から定年までに約40年しかありません。臨床も研究も全力投球し、家族とも向き合う時間を確保するには時間が足りないのです。近視眼的に損得勘定でキャリアをみれば、研究医の道を歩むことは必ずしも得ではないかもしれません。また研究医が万人に向いているわけではないのも事実です。このような現状が研究医になる医師の数が増えるのを妨げています。今でも世界的に研究医は希少な“絶滅危惧種(endangered species)”なのです1。 しかし考えて下さい。どうして炭素でしかないダイヤモンドに大きな価値が生まれるのでしょうか。それは希少性があるからです。ダイヤの希少性は自然が作りだしたのか、企業が人為的に作っているのか、またはその両方が複雑に絡みあっているのかは、ここでは深くは言及しません。どういう経緯であれ希少性が価値を生むのです。つまり言いたいことは、希少性のあるキャリア選択はそれ自体価値を生む。いまこそ研究医の希少性に注目し、その希少性を活かすべきなのです2。 参考文献 1. Nabel GJ. The MD PhD physician scientist--endangered species or the next generation? Mol Med 1995;1:369-70. 2. Shimaoka M. Strategic career planning for physician-scientists. J Orthop Sci 2015. 【私の略歴】
|