大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第30回*   (H27.8.3 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は琉球大学大学院医学研究科長・医学部長 松下 正之 先生です。
 基礎研究者への道:一期一会
                    琉球大学大学院医学研究科長、医学部長
                         大学院医学研究科 分子・細胞生理学講座教授 松下 正之

        
 

Rockefeller大学Rockefeller Research Buildingにて

 
 どのような経緯を経て基礎研究を行うようになり、研究や教育を仕事とするようになったかを述べさせてもらい、その経緯の中から少しでも学部学生などの参考になるヒントがあればと思い、医学部を卒業した頃からの記憶を呼び起こしています。私は、学部学生の頃より意識や記憶に興味があったので精神神経科の大学院に入学し、統合失調症などの臨床研究を行っていました。ひょんなことから、大学が協定を結んでいるカナダのカルガリー大学に、文部省の大学院交換留学生として行ってみないかと教授から言われ、誘われると断れない性格なので「はい」と返事をすると、その3カ月後ぐらいにはカナダにいました。カナダでは、日本の医師免許では臨床ができないので、基礎研究をしている研究室に配属されることに決まりました。その当時、脳よりヒストンを基質として、占典的なカラムの精製法でキナーゼの精製をしていた、Jerry H. Wang教授の研究室に行きなさいと言われて、断れない性格なので「はい」と答え、タンパク質精製の洗礼を受けることになりました。カナダに着いたのは9月末でしたが、カルガリー空港から外に出ると肌寒く、青く広く高い空が今でも印象に残っています。Jerryは脱リン酸化酵素calcineurinの精製・同定で有名でしたが、私が留学した当時はCDK5(Cyclin dependeni proleinkinase5)のサブユニットのクローニングを行っていました。細胞分裂に必要なCyclin depcndent prolein kinaseのファミリーが、分裂をしない神経に存在し、cyclinとは異なったサブユニットを持つことがクローニングにより明らかになっている時でした。私もこのキナーゼの制御機構を研究していた日本人のポスドクの方をお手伝いするようになり、生化学的指導を受けました。研究室での生活は、朝から夜中までコールドルームでのタンパク質精製でした。月曜日に牛の脳(5個くらい)をすり潰し、そこから4~5本のカラムによって、32Pの基質取り込みを指標として一週間くらいかけて精製していく手法です。これは、気のめいる仕事ですが、ほとんど毎週していました。その当時はペプチドの配列決定にも純粋な精製タンパク質が多量に必要な時代でした。その当時CDK5研究は世界で3つの主要な研究室がしのぎを削っていました。どこの研究室が最初にサブユニットの遺伝子配列を決定するかで競っていました。この競争の過程で、研究で生きていくための「厳しい戦い」を知ることになりました。精製の合間には、長い空き時間ができるのですが、冬はスキーを夏はゴルフを研究室の人たちと楽しむ生活でした。カナダは、夏には日没が午後10時過ぎになり、5時ころからゴルフに行っても18ホールできますし、また、ゴルフもスキーもとても安くできました。ゴルフやナイタースキーから帰ると、カラムから出てきたタンパク質フラクションの活性測定をするような生活でした。こんな生活を毎日していると、研究がおもしろくなり、中毒のようなもので、研究から足が洗えなくなっていました。
 大学院を卒業する頃、進路を臨床にするか基礎研究をするかで迷っていると、その当時Rockefeller大学のPaul Greengard研究室の准教授をしていたAngus C, Nairn(現Yale大学教授)が京都に来るので会ってみないかと言われ、京都に会いに行きました。そこで、少し研究の話をして、Greengard研究室でポスドクを探しているとのことでNew Yorkに行くことになり、研究者人生を歩むことになりました。Greengard教授は、神経細胞内情報伝達機構のパイオニアで、2000年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。私が研究室に在籍していた時は、技術員、研究員合わせて50人以上と犬1匹(ポールは子供ほどもある大きな犬を研究室で闊歩させていました)が一つのフロアーを占拠している巨大研究室でした。研究室では、行動解析、結晶解析、生化学的解析、遺伝子改変マウス、質量分析を用いた、今で言うプロテオームなどの研究が、ドーパミンシグナル解明のために同時に進んでいました。そこで、私はカルシウムシグナルの仕事をすることになり、現在の研究の基盤となる技術や考え方を学びました。Greengard研究室では、あたりまえのことのようですが、「あなたの研究は、いかにScienceの発展に貢献できるのか、Science Communityの人々が、あなたの研究を知る必要があるのか」を、常に問われていたと思います。3年ほどNYで研究生活をし、縁あって岡山大学に採用して頂き、その後、三菱化学生命科学研究所に主任研究員として転出し、琉球大学医学部に採用して頂き現在に至っています。

 医学部を卒業してからの足取りを振り返って見ると、自分の意図した方向に必ずしも向かっているわけではなく、その時々で出会った人々に大きく影響されていることがわかります。また、自分の将来を決める決断をする時には、リスクよりも興味とチャレンジを優先していたように思います。ぜひ、これから医学の道に進む若い世代の医師が、研究にチャレンジする志を持つことを期待します。


【筆者略歴】
1991年 香川医科大学 医学科卒業
1995年 医学博士(香川医科大学)
1995年 ロックフェラー大学ポールグリーンガード研究室 研究員
1998年 岡山大学医学部生理学第一講座 助手
2003年 岡山大学大学院医歯学総合研究科細胞生理学講座 講師
2005年 三菱化学生命科学研究所 グループリーダー
2009年 琉球大学医学部形態機能医科学講座生理学第一分野 教授
2010年 琉球大学大学院医学研究科 分子・細胞生理学講座 教授
2013年 琉球大学医学部・医学部長
琉球大学大学院医学研究科・研究科長