大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第31回*   (H27.9.30 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は金沢大学医学系長 金子 周一 先生です。
 教授が研究医として歩み始めた頃のことの紹介
                    
                   金沢大学 医学系長 金子 周一 (大学院医学系研究科恒常性制御学教授)

        
 

NIHでの実験風景

 
研究が向いていないと確信した学生時代
 人体解剖の実習は苦痛だった。詳細に観察しなさいと言われても、途中で神経は切れているし、おまけに絵がうまくない。どうもこういうのは僕には向かないと思った。細菌学の実習でペトリ皿にうまく細菌をまくことができなかった、そして顕微鏡による観察も細菌の特徴をとらえていなかった。生理学や生化学の実習も、とにかく適当に求められていることをすませば早く帰れるという意識だった。それらしく試験管をふる同級生をみて、すごいなと思った。ねずみが可哀想で、自宅に持って帰って飼っていた。高校まで、研究は何か崇高なものとして憧れていたけれど、この頃には、自分には向かないと確信した。臨床の授業がはじまると、研究のことは完全に忘れた。

やってみたら、かなり向いていた
 卒業して内科の教室に入局し、消化器内科医となった。金沢大学のがん研究所で基礎研究をしていた同級生が大学を去ることになり、服部 信教授から言われてピンチヒッターとして基礎研究をはじめた。ピペットを握り、核酸を抽出し、酵素を加え、大腸菌を増やす日々となった。研究は向いていないと信じていたけれど、朝から晩まで実験をしてみたら、意外にも実験は上手だった。しかし、言われたとおりにやって、うまく実験しているのに、良い結果が出ないのにはさすがにまいった。教えてくれる村上清史助教授(現、金沢大学名誉教授)の計画や指導が悪いのではないかと思い始めた。半年以上、期待したものが取れずに、仕方がないので、あれこれと自分でも論文を探し、工夫をして実験し、良い結果が出たときは嬉しかった。こうして問題をみつけ、解決し、結果を出すという研究者として当たり前のことができるようになった。吉川寛教授(現、大阪大学および奈良先端大学名誉教授)のお宅でクリスマス会が開かれたとき、先生が「分子生物学者がひとり誕生した」と言われた。本当に嬉しかった。今でも褒められた時を思い出すと涙がでる。相当に苦しかったのだと思う、こういうのもトラウマと言うのかもしれない。

研究を続けるか、やめるか
 がん研究所での研究生活が終わり、大学院生だけれども大学から車で2時間以上かかる能登半島の小さな病院に出張することになった。今でもそうだが、臨床と研究のどちらが好きですかと言われれば臨床である。しかし、研究できることが自分の取り柄となっていた。能登半島の突端から週に3回、大学に帰って実験を続けた。2-30分ほど培地交換をするだけのために通ったことも多かった。夕食後に宿舎をでるので、田舎道で眠くなった。危険な話だが、居眠り防止に妻と子供を乗せて、ずっと喋らせて往復した。不思議なもので、恵まれない環境の中で研究を続けるというストイックな自分に酔っていた。自分が交通事故で死んだら大学の誰を恨もうかと想像しては楽しんで、それほど苦にならなかった。そんな暮らしが2年ほど続いた。


I am Shuichi Kaneko
 研究をさらに発展したいというよりも、次のステップは外国に行くことだと思っていた。気がつけば同僚と自分の目標が異なっていた。その頃、有名な5人ほどの先生に手紙を書いて米国国立衛生研究所(NIH)に留学することにした。ボスのPurcell博士、上司のMiller博士に恵まれた。自分ではノーベル賞かもしれないと思って、眠ることも惜しいほどに興奮した幸せな時間も過ごした。1年半もすぎた頃には、このまま米国にいようかとさえ思うようになった。極東の国の小さな大学の出身であるという自分が離れていった時期でもあった。それまでは、日本人だから、金沢大学だからと、自分の能力に勝手に枠をかけていた。I am Shuichi Kaneko 今の自分が何をしているのか、これから何をしたいのかが大切であるとわかってきた。住む世界が違うと思っていた有名な先生が近くにいた。実際は、近づくような研究はできないのだけれど、それほど遠い人とは感じなくなった。その頃、小林助教授(前任の教授)に帰ってこいといわれた。臨床が好きなこと、日本が好きなことを思い出して、すぐに従った。

研究のすすめ
 真面目な大学生でなかったと多くの先生が自分のことを言うそうである。しかし、私の場合は折り紙付きだった。ところが、真面目な学生も不真面目な学生も卒業して医者になると、医者はよく働く。不真面目な学生だったから、外来を休む、患者をみないということはない。そうして働くようになると、学生時代と異なる自分になっていることがある。研究なんて絶対に向いていないと思っていたが、本当の研究をしてみたら、以外に面白くて自分に向いていた。自分のことも、研究のことも知らないのに、そう思っていただけだった。米国では、自分で勝手に自分の能力に枠をかけていたことに気がついた。日本の医学部を卒業するような人であれば、機会さえ逃さなければ、誰もが世界に誇れる研究ができる可能性を持っていると思う。今回は、学生の皆さんが自分で自分の可能性をつぶさないようにして欲しいと思って、懐かしいながらも甘酸っぱい私の昔話を紹介した。

【筆者略歴】
1982年 金沢大学医学部卒業
1986年 金沢大学大学院医学研究科修了
1987年 米国国立衛生研究所客員研究員
1990年 金沢大学医学部附属病院(第一内科) 助手
1993年 米国南カリフォルニア大学客員教授
2004年 金沢大学大学院医学系研究科(恒常性制御学:旧第一内科)教授
2006年 金沢大学医学類長
2014年 金沢大学医薬保健学総合研究科長・医学系長