大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第34回*   (H28.3.31 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は弘前大学医学部長 若林 孝一 先生です。
 「感動」が与えてくれるもの
                    
                弘前大学医学部長・大学院医学研究科長 若林 孝一(脳神経病理学講座 教授)

        
 

米国留学中の仲間と(一番右が筆者)

 
1.学生の頃
 医学部を卒業後、すぐに「神経病理学」という世界に飛び込んで今年で30年以上が経過した。ときどき学生から「なぜ研究者になろうと思ったのですか」とか「研究をやっていておもしろいと感じることは何ですか」と聞かれたりする。感じ方、考え方は十人十色であろうが、私の場合、実は「神経病理学」をやろうと思ったのではなく、好きになった先生が「神経病理学」を専門とする先生だったのである。その先生の専門が心臓だったら今頃は心臓の研究をしていたかもしれない。私の師匠は生田房弘先生という(現:新潟大学名誉教授)。 

 毎年、新潟大学脳研究所で神経学夏期セミナーが開かれる。医学部5年の夏、私はそれに参加した。それまで、病理学とは患者さんの組織を顕微鏡で見て診断を付けるだけの学問であると思っていた私にとって、ホルマリンに固定されているとはいえ病気の脳を目で見、手で触れ、それを前に熱く語る研究者の存在は何とも新鮮で感動的であった。まさに「雷に打たれた」思いがした。神経解剖は嫌いであったが(今でも好きではない)、卒業したら神経病理をやろうと、心に誓った。医学部の4年に進級するまで、仮進級と留年を繰り返していた自分が本気で勉強を始めたのもその頃からである。

2.研究の喜び
 医学部を卒業後、神経病理を選んで後悔したことは一度もない。しかし、つらい日々がなかった訳では決してない(艱難汝を玉にす!)。それでも、新しい所見を見つけた瞬間の喜びはいつまでも忘れられない。これまでに、パーキンソン病の消化管神経叢にレビー小体を見つけたり、多系統萎縮症に出現するグリア封入体の主要構成成分がシヌクレインという蛋白であることを見出し、報告してきた。それらは予期されない結果(unexpected nature)であったので、見つけた時は走り出したいくらいの喜びを感じた。朝から晩まで研究していた30代の頃、新しいことを見つけてすぐ論文を書こうと思うと一週間くらいは寝ても醒めてもそのことを考えていた。寝言にも出るそうで、隣で寝ている家内は「また始まった」と思っていたらしい。論文を書くという作業は決して楽なものではないが、あれこれ考えることが楽しい。そして、論文が受理されれば苦労したことは忘れてしまうのである。

 33歳の時、カリフォルニア大学サンディエゴ校に1年間留学した。快晴が毎日続く温暖な土地で、充実した日々を過ごした。ここでは研究に関して意識革命を受けた。それまで、研究とは時間をかけ、労力をかけ、お金をかけてやるものだと思い込んでいた。しかし、既に70歳を越え名誉教授となっていたDr. Terryから、時間と労力とお金をあまりかけずに結果が出せれば、それが良い研究だと言われたのである。すべての研究がそのように進むわけでは決してないが、少なくとも時間を節約することの重要性を痛感した。100点をねらう論文もあるけれど、60点の論文もあってよいのだと考えるようになった。
 自分の書いた論文が世界中の医学図書館に置かれたり、その専門領域でバイブルとされる教科書に引用されたりすることは、サッカーに例えればゴールに似ている。ゴールした喜びはアシストした仲間やサポーターと分かち合うべきだろう。一方、ゴールをはずした者にとって、その悔しさは次にゴールを狙う糧となるに違いない。ただ、これだけは言っておきたい。グラウンドという舞台に立たなければ、ボールを蹴ったことにはならないし、自己表現もなく、ゴールという感動もないということを。

3.教授になってから
 2000年に弘前大学医学部の教授となり赴任した時、教室員は助手が2人だけ。事務員も研究補助もおらず、研究費はわずかの校費で、実験のための設備はきわめて貧弱であった。何ができるかと思案した末、目標に掲げたのが、「論文を書くこと」、「研究費(外部資金)を獲得すること」、「仲間を作ること」の3点であった。幸いなことに、前任地(新潟大学脳研究所)でのデータが少し残っていたので、論文はなんとか出し続けることができた。さらに、学内の複数の講座からの援助を受け、共同研究も開始できた。しかし、教室から研究業績を出し、それを軌道にのせるためには、正直なところ研究費が必要不可欠であった。したがって、各種の財団も含め申請できる研究費はすべて申請した。数撃てば当たるもので、その後、科学研究費も継続して取れるようになった。助手の2人も、学位の取得、結婚、海外留学の道を歩み、今は教室の屋台骨を背負うようになった。現在、教室はスタッフが私を含め4名(教授1、准教授1、助教2)、他に大学院生が2名と標本作成の技術員2名である。最後に当教室の7つの信条を紹介したい。
1)『学生を大切にせよ』
 若い時ほど、より多くの可能性を秘めている。それを引き出し、伸ばしてやるのが我々の仕事の一つと考えている。
2)『論文作成のために一分一秒を惜しめ』
 論文は集中して書くもの。出せるものは少しでも早く。
3)『小さな分野でも世界のトップとなれ』
 オンリーワンを目指し、目標は高く掲げたい。
4)『仲間を作れ』
 今は共同研究の時代。力を合わせれば小さな教室でも大きな仕事が可能と思う。
5)『かわいい子には旅をさせよ』
 学問だけでなく、国際的な視野を広げることも重要。
6)『学問研究の扉は常にオープンであれ』
 常識にとらわれない発想、思ってもみなかった結果。転機はいつ訪れるかわからない。
7)『人生は楽しく、幸せに』
 幸せであることが、人生の目標と考える。そのための学問研究。
 かつて政治家になるために必要なものは、「地盤、看板、かばん(資金)」といわれた。芸の道で成功するためには、「運、鈍、根」ともいう。ならば、学問研究に必要なのは、「人、お金、アイデア」であろうか。

【私の履歴書】
1985年 富山医科薬科大学(現:富山大学)医学部医学科卒業
1989年 新潟大学大学院医学系研究科博士課程修了(医学博士)
1991年 新潟大学脳研究所実験神経病理学部門助手
1993年 カリフォルニア大学サンディエゴ校ニューロサイエンス部門留学(1年間)
1996年 新潟大学脳研究所脳疾患解析センター助教授
2000年 弘前大学医学部附属脳神経血管病態研究施設分子病態部門教授
2006年 同 研究施設長
2007年 弘前大学大学院医学研究科脳神経病理学講座に名称変更
2016年 弘前大学医学部長・大学院医学研究科長