大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第35回*   (H28.6.10 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は自治医科大学副学長 簑田 清次 先生です。
 「臨床医の立場から見た基礎研究」
                    

                     自治医科大学副学長 簑田 清次(内科学講座アレルギー膠原病学 教授)

        
 

米国留学中娘との写真

 

研修医時代
 私は東京大学医学部医学科を1978年に卒業しました。2年間の研修医生活を過ごすわけですが、当時の研修は現在の初期研修制度とは全く異なっておりました。東京大学ではそれぞれの診療科を志望するものが集まって話し合い、研修先を自分たちで決めていました。私は内科志望で、当時の内科としては第1内科、第2内科、第3内科、第4内科、物療内科と神経内科がありました。受入人数が限られていましたので、人気の内科は希望者が殺到し、話し合いでは決まらず最終的にはじゃんけんをして決めたのを思い出します。また一つの科のローテーションも6ヶ月と決められており、現在よりも相当長い期間が割り当てられていました。
 私は最初の6ヶ月を神経内科で研修し、その後は都立駒込病院(感染症科と呼吸器科)、東京大学に戻り物療内科、そして最後に第3内科で研修しました。現在の皆さんからすると6ヶ月は長いと感じるかも知れませんが、私は今でもこの6ヶ月という長さがちょうど良かったと感じています。逆に言うと2~3ヶ月で多くの診療科をローテートする現在のやり方で将来の医師としての力量をあげることができるかどうか心配になります。医師として働き始めた神経内科の印象は今でも強く残っています。1年先輩の研修医から引き継ぎを受けたわけですが、たった1年の差でしかないのに、その臨床能力は何年経っても追いつくことはできないと感じるほどでした。また仕事以外でも同僚や先輩・コメディカルとの楽しい付き合いを今でも忘れることはありません。神経内科では医局旅行にも連れて行っていただきました。大変楽しい医局旅行でしたので、私の診療科(自治医大アレルギー・リウマチ科)では今も医局旅行を行っております。また、私が初めて受け持った患者さんで印象深い方がおられます。若い女性で出産直後、何と完全対麻痺になってしまいました。先生方はいろいろ検討を重ね、脊髄のAV-malformationだろうという結論でした。当時はCTやMRIなどの非侵襲的な検査方法はなく、脊髄を調べる方法としては造影剤や空気を脊髄腔に入れた後にレントゲンを撮ることぐらいでした。この検査は当該患者さんにはすでに何度か施行されていましたが、今一度私もやることを決断し、オーベンや医局の上層部の許可を得ました。今までとは異なり、これまでの撮像が正面のみだったことから、側面撮像も含めました。すると、側面像で椎間板から髄核が突出している像を見ることができました。これによる前脊髄動脈の圧迫のため完全対麻痺になっていたこと、すなわちヘルニアを診断することができました。これまで誰もやっていなかった撮影方法を考えるというのも研究と言えるかも知れません。

研究を始めたころ
 1980年4月に第3内科に入局させていただきました。所属する研究室は第3研究室で専門は腎臓と膠原病でした。そこで初めて腎生検を我々の手で行うことを学び、侵襲を伴う検査に毎回非常に緊張したことを思い出します。そして腎生検で取得した検体の処理や病理標本の作製も病院の病理部にお願いすることなく、すべて自らの手で(研究室)で行っていました。このことがその後の研究に大変役立ったと思います。入局後3年ぐらい経ってから学位の取得を目指し本格的研究を開始しました。大学院ももちろんありましたが、当時は臨床にすすんだ同僚で大学院に入学した同級生は思い当たりません。基礎医学を目指した同級生は大学院に入学したと思います。したがって臨床をやりながらの研究(実験)ですので、臨床の仕事が終了する午後6時ぐらいから実験を開始していました。
 私は研究が好きだったかというとそうでもないと言わざるを得ません。学位を目指してやっていたというのが本音でした。膠原病の全身性エリテマトーデスでは免疫複合体が流血中に多く存在し、これが原因で
型アレルギーの機序で腎炎が発症します。健常人では免疫複合体ができてもそれをうまく処理することができます。全身性エリテマトーデスでは免疫複合体の産生量も非常に増えていますが、処理能力も低下しているのではないかと考えました。当時、研究室の代表であった宮川侑三先生は赤血球に補体受容体が存在し、この受容体を介して免疫複合体を吸着し、免疫複合体の組織沈着を抑制することにより炎症を防いでいることをLancetに報告されていました。免疫複合体の処理機構はいくつもありますが、赤血球はその数の多さから最も大きな処理機構と考えられていました。そこで私はこの赤血球上の補体受容体の数を全身性エリテマトーデス患者と健常人で比較しました。まずこの補体受容体に対するモノクローナル抗体を作り、放射活性をもったヨードでラベルし、ラジオイムノアッセイを夕方から真夜中まで毎日繰り返しました。そして果たして全身性エリテマトーデスの赤血球上の補体受容体は減少していたことを見いだしました。長野市に在住の患者さんのご両親やご兄弟に日曜日に集まってもらい、血液を採取させていただき、新幹線で上野に到着後、測定しました。このご家族を含め数家系を測定することにより補体受容体の数が遺伝的に規定されていることも見いだしました。Arthritis & Rheumatismという雑誌に掲載され、editorialまでついたことを誇らしく思いました。1984年にこれをもって医学博士を取得することができました。夕方から真夜中までの実験が毎日続きましたが、全く辛いと感じたことはありませんでした。同級生はみんなそうしていましたから。

現在の自分
 1993年に自治医大アレルギー膠原病学講座に助教授として赴任し、1997年から教授を勤めて現在に至っています。内科の中ではマイナーな科で、日々の診療と医局員集めに明け暮れた生活でした。しかし東京大学に在籍して研究をしていた頃の気持ちを忘れることはありません。患者さんの病状を考える場合もそのメカニズムはどうなっているのかをまず考えます。当科に入院中だった18歳ぐらいの女性でAdult Still病の患者さんがいました。副腎皮質ステロイドを大量使用すると発熱や関節炎はやわらぐのですが、減量すると再燃するということを繰り返し、ステロイドのために脊椎骨や肋骨が病的骨折をおこし自ら呼吸することができず、人口呼吸器を装着しICUで治療を受け、生命に関わる状態でした。折しも成人の関節リウマチに対して抗IL-6受容体抗体(現在のトシリズマブ)の治験が行われていました。Adult Still病も高度の炎症がその根底にあるためIL-6を抑制するこの抗体を使えば救命できると考え、大阪大学の先生方や中外製薬にお願いしました。自治医大の倫理委員会から許可を受け、特別にこの患者さんにのみ使用させていただいたところ、劇的に改善しステロイドを中止することができるところまで来ました。この症例をArthritis & Rheumatismに報告し、この結果をもとにStill病を含めた小児特発性関節炎に対する治験が開始され、現在、世界の多くの国で治療薬として大きな成果をあげています。

 基礎研究で明らかにされる答えは明快なものが多く、まるで謎解きのようなおもしろさがあると思います。臨床研究ではなかなかそうはいきませんが、その根底にある研究する心は大変重要なことで、臨床医にとってもこの研究心は自らの臨床能力を上げるためにも大変重要なものだと言うことを最後に述べたいと思います。


【私の履歴書】

昭和53年3月 東京大学医学部卒業
昭和53年6月 東京大学医学部附属病院研修医
昭和55年6月 東京大学第3内科入局
昭和59年7月 ノースカロライナ大学チャペルヒル校 リウマチ科留学
昭和59年9月 医学博士(東京大学 論文博士取得)
昭和63年11月 東京大学第3内科助手
平成 5年3月 自治医科大学アレルギー膠原病学助教授
平成 9年8月 自治医科大学アレルギー膠原病学教授
平成26年4月 自治医科大学 副学長