大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第37回*   (H28.10.24 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は鹿児島大学医学部長 佐野 輝 先生です。
 私が研究医として歩み始めた頃
                                        鹿児島大学医学部長 佐野 輝

        
 

Radin教授、Mason研究助手、筆者(1988年、Michigan大学にて)

 

 私ども神戸大学医学部昭和56年(1981年)卒業組の学生時代は、多くの学生が3年生になる(専門移行)とともに西塚泰美教授(1988年文化勲章受章、1989年ラスカー賞受賞)が主宰されていた生化学教室に入り浸っての実験三昧の生活を送らせていただきました。講義、実習、基礎配属で西塚泰美教授の薫陶を得た幸運は今でも忘れ難いです。西塚先生は高名な学者やそのお仕事を身近に感じさせる名講義をなさり、「次は君たちがノーベル賞を取るんだ」と学生に夢を与えてくださいました。30年近く経った今でも、先生のなさった「アミノ酸(トリプトファン)代謝」や「細胞内情報伝達(c-AMP)」の講義は詳細に覚えています。また、当時教室に在籍されておられた諸先生方の熱気あふれる研究室の雰囲気や西塚先生の「回診」時の研究室のピリピリしたムード、また研究成果のプリゼンテーションに対する厳しい指導などは、今でもありありと思い出すことができます。此の頃に形成された「夢を追いかける」という研究者マインドが、臨床医学を専攻することになった今でも生き続いていると思います。
 医学部を卒業する前に、私が高校生時代から尊敬申し上げていた当時愛媛大学に初代の医学部長として赴任なさっていた生化学の須田正巳先生のもとに進路の相談に参りました。「美しい研究をしなさい。そのためには、嘘のないしっかりした研究をされる愛媛の柿本先生のもとで勉強をさせてもらいなさい。」とのご助言があり、進路は愛媛大学医学部神経精神医学教室に入局(主任:柿本泰男教授)ということに相成りました。精神科医としての研修の洗礼を受けるとともに大学院に入学し、神経化学の研究を始めました。大学院を修了した一年後、1986-88年(29-31歳時)に、米国ミシガン州アンナーバー市の ミシガン大学精神衛生研究所 Dr. Norman S Radin 教授のもとに留学しました(写真参照)。研究者として渡米したにもかかわらず、日本人留学生やその家族の精神障害の対応を頻繁に求められ、精神科医としても勉強になる体験を多くいたしました。糖脂質代謝の病態生化学的研究は進み、2年間の充実した研究生活を送った後、帰国しました。

 当時の柿本教室で行われていた神経化学の研究は、「ものとり」の生化学とよく申しておりましたが、脳神経系に存在する新規のアミノ酸やペプチドなどの物質を単離し、それらの化学構造を同定し、存在部位での定量を行って分布を調べるといった静的な生化学的研究で、精神神経疾患の原因究明と治療法の開発に挑むにはまだまだ遠い基礎的研究でした。臨床活動にも大いに励み、研究室での研究が臨床医学への橋渡しができないものかと悩んでいたその頃、遺伝子工学の発展が著しく進み出していました。1987年には慢性肉芽腫症やゴーシェ病の遺伝子変異が発見され、さらには1985年に連鎖解析によって染色体上の位置がマップされていた嚢胞性線維腫症遺伝子が1989年に発見されました。このように連鎖解析で遺伝子の位置を探り、病因遺伝子を発見するといういわゆる遺伝子ハンティングの時代が訪れました。その後、私どもも自らの担当する患者さん達の解析から常染色体優性遺伝性の歯状核赤核淡蒼球ルイ体萎縮症や常染色体劣性遺伝性の有棘赤血球舞踏病の遺伝子発見に加わることができました。これらの体験は、目の前の患者さんの遺伝子レベルの病因を明らかにすることができたという非常に明快な喜びを与えてくれました。しかし、病因遺伝子の発見はすぐには治療には結びつきません。臨床への還元はなかなか困難で、その後の長い苦闘が続いています。さらには、単一遺伝子疾患ではなかなか説明のつかない複雑な遺伝的背景を持った多くの精神疾患に関しても苦闘は続いています。

 本稿を書き終えるにあたって是非とも伝えたいことが二つかあります。先ず第一は、臨床研究家としての立場を考えれば当然のことですが、診療上疑問に思ったことを題材とし、patient-orientedな研究を進めることの有り難さ、有利さです。私たち臨床研究家の目の前には研究題材が山ほどころがっています。そして、目の前の患者さんに突きつけられた難題を解決することは、それ自身が研究者の原動力をかき立ててくれます。第二には、百年経ってもつぶれない仕事をすることの大切さです。一年後にも追試に耐えなかった数多くの論文をみれば、Impact Factor等の点数を追い求めるタイプの生産性追求の研究には寂しさを感じるでしょう。統計のマジックに左右されない、患者さんの顔が見え、白黒がはっきりする研究が私は好きです。これらのこと以前に、臨床家にとって一例一例の患者さん達は新規な事象に満ち満ちており、生涯学習とともに、その中にも研究的要素は必要欠くべからざるものであり、その面白さが本稿で幾分でも伝わればと思います。


【略 歴】

昭和56年 神戸大学医学部医学科 卒業
昭和60年 愛媛大学大学院医学研究科博士課程 修了(医学博士号授与)
昭和60年 愛媛大学医学部助手採用(神経精神医学講座)
昭和61年 米国ミシガン大学精神衛生研究所で研究に従事(学外研修)
昭和63年 愛媛大学医学部助手復職(神経精神医学講座)
平成4年 愛媛大学医学部附属病院講師(精神科神経科)
平成5年 新居浜精神衛生研究所附属新居浜精神病院医師
平成6年 愛媛大学医学部附属病院講師(精神科神経科)
平成8年 愛媛大学医学部助教授(神経精神医学講座)
平成14年  鹿児島大学医学部教授(精神神経医学講座)
平成15年 鹿児島大学大学院医歯学総合研究科教授(精神機能病学分野)に配置換
平成21年   鹿児島大学医学部副学部長併任
平成25年  鹿児島大学医学部長・医学科長併任 
  現在に至る