大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第41回*   (H29.8.7 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は横浜市立大学医学部長 井上 登美夫 先生です。
 「研究医を目指し始めた頃の思い出と苦労」
                                  
                            横浜市立大学医学部長 井上 登美夫(放射線医学講座教授)

        
  1988年 中央(浴衣姿) 胸部レントゲン写真の名著で有名なフェルソン先生を囲んで

後列左から 飯塚利夫先生(当時 群馬大学附属病院第二内科助手)、 
左から2番目 筆者、 左から3番目 松本満臣先生(当時 群馬大学助教授)、
後列右から 石川徹先生(当時 聖マリアンナ医科大学放射線医学講座教授)、
右から2番目 佐々木康人先生(当時 群馬大学医学部核医学講座教授)
 

 私は平成13年9月1日に群馬大学医学部から横浜市立大学医学部に主任教授として異動致しました。そのため研究医を目指した時代は、前職の群馬大学医学部在籍中ということになります。臨床研修制度がなかった時代で、昭和52年3月に群馬大学医学部を卒業後すぐに同大学の放射線医学教室(主任教授:永井輝夫先生)に入局しました。放射線領域は大きく診断と治療に専門領域が分かれますが、いずれを専攻するにしても入局当初は研究医を目指すつもりはさらさらありませんでした。臨床医として大学あるいは県内の放射線機器が設置されている病院で研鑽を積んでいく臨床放射科医として自分のキャリアを思い描いていました。しかしながら、専門領域としては、早い時期から、放射線科診療の中で放射性核種を医療に応用する核医学に興味を持っていました。その理由のひとつとして、一つの核医学検査が成立する背景に、放射線医学のみならず理工学、薬学、生理学、生化学、分子生物学など学問横断的な側面を持つことに興味を抱いていた事があげられます。昭和50年代の放射線科は、米国留学で放射線診断のトレーニングを積まれた新進気鋭の先生方が帰国され、1枚のレントゲン写真の画像から所見を分析し、的確に可能性の高い病名を指摘し、主治医に告げていくいわゆるドクターズ・ドクターとしての放射線診断医にあこがれる機運がありました。今で言う「ドクターG」のイメージです。そのような中で、核医学を志向していた私はどちらかといいますと平均的な若手放射線科医ではなかったと思います。私にとっては幸いなことに入局後まもなくして、群馬大学は佐々木康人先生を主任教授としてお迎えし、放射線医学講座から独立した核医学講座を設置致しました。そこで私は放射線医学教室から核医学講座に異動致しました。講座開設当初は教授と助手の二人で教室の立ち上げが始まりましたが、私自身は研究医の道を歩むという意識は全くありませんでした。何年か教室の立ち上げをお手伝いし、軌道にのったところで近隣の総合病院に放射線科医として就職する人生設計を描いていました。しかしながら、今思えば研究医の道を歩むきっかけとなったのは当時上司であった佐々木教授から「PET検査は投与した薬剤(治療薬)がヒトの体の中でどこに分布したかを視覚的かつ定量的にしかも非侵襲的に体外から測定できる可能性を持つ唯一の方法であり、個々の患者ごとに適正な薬物治療を行うために非常に有望な測定法になる」と言われたことに衝撃を受け、その時PETの研究をしてみようと思い始めたのが研究医の道に進むきっかけになっているように思われます。今思えば35年前に“PETを用いて個別化医療を実践すべき”ということを教えて頂いたことになります。現在ではぶどう糖代謝を反映するFDGによるPET検査はがんの診療を担う重要な検査のひとつになっていますが、今から35年前私が助手の頃は、まだ日本でも3~4施設しか行うことができない状況で日常診療とは程遠いため「研究用PET」とよばれていた時代でした。病院内に設置されたサイクロトロンという加速器でPET検査用の放射性同位元素を作成し、放射能が高く素手で標識合成できないので、コンピュータで制御して自動的に合成する装置を用いるのですが、様々な工学系の技術も、コンピュータ技術もまだ未成熟な時代でした。そのため、製造過程でコンピュータが止まったり、合成装置がトラブルをおこしたり、今では当たり前のように合成できるFDGの合成に失敗することがしばしばでした。その都度患者さんや看護師さんに謝っていましたので、だんだんモチベーションがさがり、当時は、こんな不安定な検査システムは日常診療に定着するわけがないと少々なげやりになっていた時期もありました。ところが1990年代に入り全身撮影ができるPET装置が開発され、FDG PETが脳の研究から「がん」を対象とした研究にシフトした頃から状況が一変し、研究PETから臨床PETと呼ばれるようになりました。核医学講座開設5年後に初代教授の佐々木康人先生が東京大学の放射線科教授として異動されたため、群馬大学は後任に遠藤啓吾先生を2代目の教授としてお迎えしました。遠藤教授から留学の機会を与えられ、留学先として米国ヒューストンのMDアンダーソンがんセンターを選び、1994年から1年数か月の短い期間でしたがpostdoctorial fellowとして留学させて頂きました。当時核医学領域では脚光をあびていたPETオンコロジーの分野を学ぶ予定でしたが、着任した1か月後にPET研究が突然中止されてしまいました。途方に暮れていた時に、当時のMDアンダーソンがんセンターの核医学部門でPET薬剤の合成研究をされていたPhDのDavid Yang教授(当時は准教授でした)に声をかけていただき、一緒にSPECTのがん診断薬の研究をさせていただくことになりました。1年強の短い期間でしたが、放射線科専門医としての私を認めて下さった彼は、研究の指導者でありながら対等に議論し、かつ基礎実験の様々なノウハウを指導して下さいました。彼にとっても突然PET合成研究の道を閉ざされ、腰掛の私とは違い職を失うかもしれない大ピンチの時に、研究者としての生き残りをかけて一緒に研究をした「戦友」としてお認めくださり、帰国後も現在に至るまで無二の親友として交友を続けています。研究医を目指し留学したことによって生涯の友を得たことに感謝しています。

【私の履歴書】

1977年 群馬大学医学部 卒業
 〃 群馬大学医学部放射線医学講座 教務員
1980年 群馬大学医学部附属病院中央放射線部 助手
1981年 関東逓信病院第一放射線科
1984年 関東逓信病院放射線科
1985年 群馬大学医学部核医学講座 助手
1989年 群馬大学医学部核医学講座 講師
1992年 群馬大学医学部核医学講座 助教授
群馬大学医学部附属病院放射線部 助教授(兼任)
1994年 米国テキサス大学MD Andersonがんセンター診断放射線部 Post-doctrial fellow
1995年  群馬大学医学部核医学講座 助教授
群馬大学医学部附属病院放射線部 助教授(兼任)
 
2001年 横浜市立大学医学部放射線医学講座 教授
横浜市立大学医学部附属病院 放射線部長
2008年-2011年 先端医科学研究センター長(兼任)
2014年 横浜市立大学附属市民総合医療センター 病院長(兼務)
2016年 横浜市立大学 医学部長