大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第44回*   (H30.2.28  UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は大分大学医学部長 守山 正胤 先生です。
 「研究医を目指したきっかけ」
                                  
                              大分大学 医学部長 守山 正胤(分子病理学講座 教授)

        
  東大医科研病理学研究部時代(助教)の筆者(最前列右から2番目)  
 私は昭和58年に秋田大学医学部を卒業し、直ちに泌尿器科に入局し附属病院で研修医として勤務しました。泌尿器科で直接ご指導頂いた当時の准教授の加藤哲郎先生(後の主任教授)の勧めもあり、卒後2年目に大学院に入学し、病理学講座で病理学を学びました。病理学講座では綿貫勤教授のご指導のもと通常の解剖業務などの他に大学で過去に診断治療されたすべての泌尿器癌の手術標本を新しい診断基準で統一的に見直す経験を得ました。それらをまとめて学位を取得後、泌尿器科の医局人事で東京厚生年金病院泌尿器科に赴任しました。大学院で病理を学んだこともあって、癌患者の治療後の予後規定因子に興味がありましたが、患者手術検体からそれをどのように明らかに出来るかについては新しい決定的な手がかりがなく、悶々としていました。ちょうどその頃、癌を引き起こす直接的な原因として癌遺伝子が単離、同定されていることを知りました。そこで自分が手術した症例の癌組織でそのような遺伝子の動向が明らかに出来ないかと考え、東大医科研病理学研究部の森茂郎教授のもとで客員研究員にして頂きました。その後は夕方病院勤務を終えた後毎日医科研に通い、自分の患者検体における癌遺伝子の構造や発現を調べる実験を開始しました。当時まだ分子生物学の手法は一般には敷居が高いものでしたが、医科研の制癌研究部の豊島久真男教授のもとで助手として勤務されていた秋山 徹先生(現東大分生研所長)に直接ご指導頂きました。当時豊島研で単離されたc-erbB2 (HER2)が乳がんで増幅され非常に重要な働きをしていることが明らかにされ、その研究の重要性が注目されていました。そして、豊島先生と秋山先生が東大医科研から阪大微研に移られることが決まると研究を続けるために勤務していた病院をやめて阪大の豊島研への自費留学(研究生)することにしました。かくして一介の勤務医が突如として医局を退局して無収入の研究者に変わりましたが、これが自分の一臨床医から研究医への転換点になりました。今思うと極めて見込みのない不安定な将来への転換で、無謀というほかありませんでした。若かったということだと思います。想定されたことでしたがラボのスタッフの皆さんや大学院生とは学力の点で大きな差があり、自分の無謀な決断を改めて思い知ることになりましたが楽しい2年間でもありました。研究成果については心血を注いでほぼ仕上がっていた研究内容がヨーロッパのグループに先にScienceに出されてしまい結局阪大では論文を出すことは出来ずじまいでした。その後どうしようか迷っていたときに東大医科研の森教授からお誘いを受け東大医科研病理学研究部助手として雇用して頂くことになり、再び東京に戻りました。東大では約8年間御世話になりましたが、ボスが血液病理であったことから悪性リンパ腫の分子病理という立場で、染色体転座で活性化される癌遺伝子BCL6の蛋白質としての同定、発現、機能の解析を行いました。東大で8年間御世話になった後、縁あって鳥取大学医学部生命科学科の分子生物学教室へ准教授として赴任しました。鳥取大学では初めて4年生学部の学生と仕事をしましたが、学部教育から大学院修士課程と博士課程の学生指導をする経験を得ました。また初めて就職活動の指導も経験しました。これは医学部医学科では経験できないことで学部ならびに大学院生の就職活動の重要性を経験し、研究者のキャリアパスの確保が他の職種に比較しても大変困難であることを実感しました。5年間鳥取大学で御世話になった後、平成15年9月に大分医科大学分子病理学講座の教授として赴任しました。大分医科大学(後に大分大学医学部)では泌尿器科ならびに消化器内科と連携して腎細胞癌、胃癌ならびに膵癌の研究を始めました。当時マイクロアレイを用いた網羅的遺伝子解析が出来るようになり、各癌腫の前駆病変から早期癌、進行癌へと進行するゲノム異常の変遷のプロセスや悪性度を支配するゲノム異常の解析からいくつかの癌抑制遺伝子の単離に成功しました。その後その分子メカニズムの解明とともに治療標的の同定を目指して研究を続けています。
 これまでの私の経験から研究医の養成に重要なのは、卒業後の早期(卒後1年目や2年目)に研究の重要性を認識する経験だと思います。特にそのときに研究の重要性を理解した指導者に出会えるか否かが大変大きいと思いますし、それがその後のモチベーションの育成や挑戦するマインド養成に重要ではないかと思います。私の場合は入局した時にそのことを熱く語り実践しておられた先生に出会えたことが圧倒的に影響したと思います。そういう意味でも現在の初期研修制度は研究医を育成するためにはマイナス要因が大きいと感じざるを得ません。多様な才能の発掘とそれを伸ばす制度に改める必要性を強く感じる次第です。


【略歴】
昭和58年3月 秋田大学医学部卒業
昭和58年6月 秋田大学医学部附属病院研修医(泌尿器科入局)
昭和59年4月 秋田大学大学院医学研究科入学
昭和63年3月 同上修了(医学博士)
昭和63年4月 東京厚生年金病院泌尿器科医員、その後医長
平成2年7月 大阪大学微生物病研究所発癌遺伝子部門研究生
平成3年9月 東京大学医科学研究所 病理学研究部助手
平成10年11月 鳥取大学医学部生命科学科分子生物学教室助教授
平成15年9 月 大分医科大学免疫アレルギー統御講座(病理学第二講座)教授
平成20年7月 大分大学医学部分子病理学講座教授
平成25年10月 大分大学医学部長 併任 現在に至る