大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
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「二人の師匠との出会い」 山形大学医学部長 山下 英俊(眼科学教授) |
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昭和56年(入局1年目の秋)の医局旅行にて、三島教授と同期入局者。 |
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私は昭和56年(1981年)に大学を卒業し、眼科に入局しました。このコラムのタイトルが「ひよこのころ」とのことですので、眼科医になりたてのころを中心にお話します。当時は初期臨床研修という制度がなく、大学を卒業すると専門を選択するシステムでした。私は学生時代に聞いた眼科学の三島済一教授(東京大学医学部眼科学講座)の講義の面白さと眼底の美しさに惹かれて眼科学を専攻しました。眼科に入って高尚な学問とか眼科の面白さに触れる前に眼科診療の基本である眼科の種々の検査をマスターするので悪戦苦闘する日々がまず始まってしまい、眼科学とはどのような学問で、なにを極めるのかということを考える暇もなかったというのが正直なところです。何といっても、学生時代に惹かれた眼底の美しさは名人が眼底カメラにより撮影した写真でふれたのみで、実際の患者さんを自分で診察して眼底像に接することが出来ません。なぜなら眼底鏡と前置レンズを使って眼底を観察することができないのです。原理は三島教授から入局後のクルズス(勉強会でのレクチャー)で習っていたのですが、理論と実践は異なっていて本当に眼底が見えない日々が2週間続きました。焦りましたが、優しい女性の指導医は「眼底は最初はみえないものよ」「眼底が見えないで眼科医を止めたひとはいないから心配しないで」といわれました。たしかに、2週間ほどしたらなんとなく見えてきました。 このようにあまり威勢のよくないスタートをした眼科医でしたが、眼底が見えるようになり、いろいろな眼科の検査法をマスターするとだんだんと眼科学が面白くなってきました。まず、眼科の診療では眼に関する検査、視力、眼圧、眼底、視野など、全て眼科医がやります。その原理を学ぶのは眼の解剖、生理と病理を本質から勉強する必要があるので楽しいものでした。さらに、患者さんから自分で得た臨床データを組み合わせて、なぜ目の前の患者さんは視力が低下したのかという病態を自分一人で理解し治療方針を立てることができます。さらに、眼科手術を自分で企画して治療することも何年かするとできるようになってきます。責任も大きくなりますが、患者さんの視覚を回復するために自分の力が発揮でき、その成果として患者さんから「ありがとうございました」といわれるともう、「眼科学は自分の天職である」と思い込んでしまったのが若き日の姿です。かなり単純ではありますが、一生、眼科医として過ごすことに満足している現在の自分の原点は、診断と治療を自分でやれるという自信(いま考えると過信で、冷や汗ものですが)であったと思います。 ただ、眼科医学を研究することはこれまで述べたようなプリミティブな思い込みとは別の次元のインパクトが必要でした。それは、眼科医としての第一歩から指導をいただいた三島済一教授(当時)による研究の御指導を受けたことでした。三島済一先生は眼科の歴史にのこるきわめて多くの業績を上げておられます。涙液、角膜などの基礎(生理学と病理学)、基本的データを最初に測定し、発表したすばらしい業績です。角膜や涙液の生理学的なデータは現在のコンタクトレンズによる視力矯正やドライアイなどの疾患の診療に役だっています。イギリスのロンドン大学眼科学研究所、およびアメリカのコロンビア大学眼科で長年にわたり研究職、教育職についてから帰国され東京大学眼科に奉職されました。眼科学の分野で最高レベルの学術賞であるJackson Memorial Lecture、 Proctor Medal,、Javal Medalなどを総なめにした日本人は三島先生のみです。その活動の舞台は世界であり、世界にもっとも名前の知れ渡った眼科医の一人です。「国際化」は最近でこそ当たり前になっていますが、なかなか実現しづらかった昭和30年代から三島先生はつねに国際的な舞台で活躍されていました。三島先生の名前を世界レベルに押し上げたのは上記のすばらしい基礎研究の業績です。三島先生は学生時代から基礎医学教室で基礎医学研究の真髄、すなわち「研究では世界に先駆けて最初に発見したもののみが価値がある」ということを研究生活の最初にimprintされたとのこと、さらには基礎医学に関する論文も発表されたとのことです。研究は決して苦しいばかりのものでなく、その成果を得たときの喜びが研究をさせているのであると三島先生はおっしゃっていました。三島先生の研究に対する姿勢は本当に厳しく、ストイックなものでした。「(自分でみつけた)オリジナルなデータ以外は一切論文にしませんでした」と話された言葉には迫力が満ちていました。しかし、三島先生の真骨頂は大成功を収めたヨーロッパ、アメリカでの研究スタイル(方法)を帰国時に明確にモデルチェンジされたことですが、研究のコンセプトを変更したのではありませんでした。海外での基礎研究も帰国したのちの臨床的な研究も、結局は、臨床医学としての眼科学の目的である患者さんの視覚を回復させるための科学という視点です。医学は患者さんを直すためのサイエンスでなければならないという価値観は、山形大学医学部眼科学講座に教授として赴任してからの師匠である嘉山孝正教授(脳神経外科学、山形大学医学部附属病院長、医学部長ののち、国立がん研究センター総長・理事長、日本脳神経外科学会(18基本領域のひとつ)理事長2期を歴任し、現在は山形大学医学部参与、国立がん研究センター名誉総長)からの教えでもあります。嘉山先生はヒトのがんが低酸素状態であることを世界で初めて臨床的に証明されました。この成果は現在でもがん治療に役だっています。ちなみに、嘉山先生も三島先生と同様に学生時代にすでに基礎医学の研究論文をトップネームで発表していらっしゃいます。基礎医学の勉強を若い時期にすることは本当に重要と考えます。私は三島先生、嘉山先生という私にとっては身に過ぎたお二人の師匠を持つ幸運に浴していますが、二人とも臨床医学に貢献をし、その進歩により患者さんの利益が増すことを研究生活で終始一貫考えておられたのです。私も現在の眼科の弟子を教育する立場ですが、この基本的なコンセプトは堅持しています。三島先生に「如何にして国際的にアピールする、または通用する眼科医、眼科研究者になれるか」と質問したことがあります。三島先生のお答えは「すばらしい、良い眼科医になること、そうすれば自然と世界に通用する眼科医になるはずです」でした。これから医学研究を目指す若い医師の諸君にも、患者さんのベッドサイドで患者さんを自分自身で診ながら、何とか治療したいというパッションを持ち続けることを是非お願いします。医師は患者さんの疾患を治療することから学ぶという教えは如何に技術が進歩してもAIが導入されても医学の基本であることは絶対に変化しないと確信しています。
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