大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第48回*   (H30.10.29 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は岩手医科大学医学部長 佐藤 洋一 先生です。
 「研究医への道」
                                  
                     岩手医科大学医学部長 佐藤 洋一(解剖学講座(細胞生物学分野)教授)

        
 

1979年 解剖学教室助手時代

 
 私は、現在は医学教育を統括する部門に属しているが、もともとは解剖学を専攻しており、現在でも解剖学講座細胞生物学分野の講座内教授を兼任している。全くの基礎領域であるとはいえ、実は大学入学後から、いくつもの分岐点を経て、現在に至っている。
 もともとは岩手県の医療過疎地にいたせいもあり、臨床医を志して医科大学に入学した。そのためか、「臨床医になったら忙しくて研究することもなかろう。サイエンスをするのは学生時代しかない!」と思い込み(それが浅はかであることは、今ならわかるが)、同級生と語らって基礎の教室に出入りしはじめた。当時の教授や教室員はうるさがらずに良く面倒をみてくれ、抄読会や輪読会にも参加した(させられた?)。とはいえ、臨床医になるつもりであったことは言うまでも無い。ところが臨床医学の講義がはじまった途端、臨床医学に対して失望感が広がった。わけもわからず知識を暗記させられるように感じたのである。それでも臨床実習で患者や家族の皆様に「有難うございました」と感謝される経験は、確かに嬉しいものであった。知的好奇心を満足させるか、あるいは利他精神を発揮できるやりがいをとるか悩んでいるとき、組織学の教授から「助手になりませんか?」という誘いの手紙を頂いた。機能に興味があったので研究するなら生理学、と思っていたが、学生時代に触れた電子顕微鏡の世界も面白そうであると感じて、解剖学の教室に入った。

 実際に研究の場に入ると、全てを指示して貰う学生時代と異なり、能動的にしなければいけない場面が多く、かなり自己統制力がないと務まらないことを実感したが、やりがいのあるものであった。卒後、研究生活(電子顕微鏡学や人類学)に入ったものの、すぐさま講義と実習も担当させられたが、これは後進育成の重要さを気づかせようとする教授の親心によったものであろう。また教授の助言に従い、3年目には県立病院で臨床医学を研修した。ここで得た経験は、その後に解剖学を教える上ではもちろん、症例を基盤としてものごとを進める意義を念頭におく姿勢を培えたことは、基礎研究を進める上でも役に立った。

 その後、縁あって旭川医大の肉眼解剖の教室へ転出した。研究はミクロ、教育はマクロ、という生活であったが、いろんな見方があることを学ぶことができた。とりわけ、マクロ教育で必要に迫られて仕入れた比較解剖学の知識は、その後の細胞生物学の研究にも役立った。ちなみに、私が学生時代にしたと同様に研究室を訪れる学生の面倒を見て、彼らに研究の場を提供したが、そのうち2名は解剖学の教授となっている。

 電子顕微鏡は、生命体の微細構造を精緻に捉えるという意味で、比類が無いものであるが、それが撮られた前後のイベントはわからない。そんな不満が嵩じて、時系列的に生命現象を定量的に観察したいという欲求が湧いてきた。形態の定量化はドイツ留学で学んだ。語学学校でのハードな学修で始まった留学生活であったが、そのおかげであちらこちらに出かけて行くことができるくらいの語学力は身につけることができた。多様なヨーロッパの文化と生活に触れる機会を得たのは、視野を広げる意味で大きかった。学問的な進歩は、なんと言っても、徹底して真理を探究する姿勢が身についたことであろう。主任教授の「自分の得たデータについて、四六時中考えろ。そして真理を見出す様に観照しろ。」という教えは、忘れがたい。

 新設大学のせいか、旭川医大では講座間の風通しが良く、他分野の先生方と仲良くなれた。そのおかげで、カルシウムイメージングを研究手法に加えることができた。生きた細胞を瞬時に固定する(=殺す)ことに注力する電子顕微鏡と、生きた状態の細胞を長時間にわたって観察するバイオイメージングでは、実験のタイムスケールが全く異なるので面食らったが、これまた経験値が上がった。

 研究医、それも基礎分野というと、他の人と会話もせずに脇目も振らずに研究室に閉じこもっている、というイメージがあるが、私自身の経験からいえばそんなことは無い。もちろん一心不乱に実験している場面も無いわけではないが、むしろ自分の研究の質を向上させるためには多分野の方と交流を深めるのが良いと思う。研究室を構成するメンバーは数が限られているからこそ、人間関係を良好に保つことは大事である。「彼は人と話すことができにくいので、基礎でもやってみたらどうかと思う」という言葉を良く聞くが、それは大間違いで、良好な人間関係を作れない人はこれからの基礎研究には全く向いていない。また、専門性にとらわれず、様々な実験手法を経験するべきであろう。「研究者は30代で修得した研究手法で、その後の研究人生を過ごしていく。」という言葉を聞いたことがあるが、まさしくそうだと思う。自分で実際に実験したことがあれば、自信をもって部下に適切な助言を与えることが出来る。こうしてみると臨床医と研究医は何も変わらない。専門医であっても幅広い臨床力を求められるし、医療の現場では、チーム医療が常識である。研究成果を全世界に向かって公表するプロセスを通じて、研究者は謙虚さを学び、比類の無い達成感と自己肯定感を得るが、同様のことは診療活動においても達成できるであろう。研究医と臨床医は、到達する目的地が違うわけでは無く、複数車線のどこを走るか、という違いに過ぎない。実は、真の分岐点は無かったのである。
 定年を間際に控え、自分の歩いた道を振返ってみると、「あの時、こうしておけば」と思わないこともない。例えば、留学先がヨーロッパではなく、アメリカの分子生物学をバリバリやっているラボであれば、今頃はもっと最先端の研究を進めていたであろう。とはいえ、それと裏腹に、じっくり考える習慣を身につけること無く、せっかちな性格そのままに、流行の研究テーマを追求め、刹那的な底の浅い研究を数多く出すことに血道を上げていたことと思う。臨床経験や肉眼解剖の教育経験は、研究テーマとは直接に結びつくものでは無いものの、研究の独自性を育む素地をつくってくれた。自分の意志で選んだマイ・ウエイがベストである、と思うこの頃である。さて、定年後である。現役教授時代は、管理業務で追いまくられ、思うようにできなかった研究に浸りたく、かつて主管していた細胞生物学のラボの研究員になりたいと希望したところ、主任教授以下スタッフ全員から「ウザイ、ジャマ」と言われてしまった。私の得意技は、透過型電子顕微鏡標本作成と読映、および組織塊分離標本によるカルシウムイメージングや顕微鏡の保守である。どこか私を拾ってくれるラボは無いものであろうか。

【私の履歴書】
岩手県花巻市生まれ
昭和53年 岩手医科大学 医学部 卒業
昭和53年 岩手医科大学医学部助手(解剖学第二講座)
昭和55年 岩手県立釜石病院研修医
昭和56年 旭川医科大学医学部助手(解剖学第一講座)
昭和59年 ドイツ連邦共和国、マインツ大学にドイツ学術交流会留学生
昭和61年 旭川医科大学医学部助教授(解剖学第一講座)
平成4年 岡崎国立共同研究機構生理学研究所客員助教授(細胞内代謝部門)(併任)
平成7年 岩手医科大学医学部教授(解剖学第二講座)
平成20年 岩手医科大学教授(統合基礎講座解剖学講座細胞生物学分野に組織改編)
平成25年 岩手医科大学教授(医学教育学講座/細胞生物学分野兼務)
平成28年 岩手医科大学医学部長