大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。 | |||||
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「臨床医を目指した医学生、研究にはまる」 東京慈恵会医科大学学長 松藤 千弥(分子生物学講座教授) |
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6年生のとき大阪で開催された日本生化学会大会で口頭発表。栄養学教室の先生方に囲まれて。左から3人目が筆者。 |
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大学受験のずっと前から医者になろうと決めていました。昭和52年、慈恵医大に入学したときも、将来は当然臨床医になるものだと思っていました。2年間の医学進学課程は、地理的にも専門課程と離れた所にあり、時間割は自然科学、人文・社会科学、語学などでした。早期臨床体験などというものはない時代でしたが、専門科目を早く学びたいとは思いませんでした。正直いうと、部活動や社会勉強(社会学の勉強ではない)に忙しかったのです。しかし、今になってわかるのは、あの2年間に私は「科学」というものをしっかりとたたき込まれていたということです。科学の面白さ、美しさ、威力にたっぷりと触れ、知らないうちに自分でも科学を使ってみたくなる、そんな状態だったのではないかと思います。 3年生になると、専門課程のキャンパスで基礎医学の授業が始まりました。まずは解剖学、生理学、生化学です。急に変わった講義のテンポと雰囲気に戸惑いながら、医学の専門科目を学ぶ喜びを感じました。講義はとても全てを理解できたわけではありません。しかし、理解できた部分については必ずといっていいほど「なぜだろう?」「いったいどうなっているんだろう?」という疑問が湧きました。講義のあと講義室で、あるいは研究室に行って、いろいろ質問しました。その場で答えをもらえるときもあれば、自分で調べてみなさいと言われるときもあります。初めは教科書で、そのうち図書館の新着雑誌の書架で新しい情報が見つかることを教えてもらってそこで調べました。ひとつ疑問が解決しても、すぐまた新しい疑問が湧きます。それを解決したら次、また次、というふうに掘り下げていくと、どこかでそれ以上進めなくなります。答えがないのです。例えば(当時本当にこのように考えたかどうかはわかりませんが)なぜ心臓は左側にあるのか?という疑問に対しては「そうなっているからそうなんだ」と割り切るしかないのです(今はもっともっとわかっていますが)。一方で、こんなところまでわかっているのか、と感心することもあります。私は、疑問の連鎖を無理やり打ち切ることが少ないという理由で、生化学が好きになりました。 その中でも一番好きだったのは、恩師である故 林伸一教授が教えてくださった代謝の流れを切り換える仕組みでした。食後ブドウ糖からエネルギーを作り出す解糖系と、食事から時間が経ったとき体に蓄えた分子からブドウ糖を作り出す糖新生系は、ほぼ逆向きの代謝経路です。働いている酵素の多くは両方向の反応を触媒しますが、途中3箇所だけが一方通行の反応しかしない酵素の対で触媒されます。もしも逆方向の酵素の対が同時に働いてしまうと、反応がぐるぐる回ってエネルギーが無駄に消費されてしまいます。これを防ぐ仕組みの一つとして、酵素自体が細胞内の物質の濃度を検知して化学反応の速度を変える「精密分子機械」だということを教わったのです。しかも、酵素に検知される細胞内の物質の濃度は、細胞内外のエネルギーの充足度(充電度)、胃や口や視野に食べ物が入ったという情報まで反映しているのです。このことは私の心を強く引きつけ、疑問の連鎖はなかなか終わりませんでした。酵素に限らず、体の中で働くタンパク質が、情報を伝える小分子の結合部位を持ち、それによって働き方を変えるのは、アロステリックという原理です。環境の変化に適応して生き延びるために生物が編み出した一大発明だという記述、またアロステリック調節が酵素タンパク質の構造変化によって起きるということは、私にとってそれぞれ分子生物学と構造生物学への入口になりました。そして、酵素のアロステリック調節が数式(ヒルの式)で記述でき、実験的にアロステリック(協同性)の強さを調べられるということも、私をわくわくさせることでした。 3年生の11月、生化学の実習が始まりました。教員別に複数のテーマがある実習でした。私は野口民夫先生(後に大阪大学を経て福井大学の教授)が担当したピルビン酸キナーゼのテーマを選択しました。この酵素には4つのアイソザイム(酵素のタイプ)があり、成人の肝臓にあるのは主にL型です。しかし、がんや肝再生のときにはM2型が増えてきます。 L型はM2型に比べATPによって、より強いアロステリック阻害を受けます。そこでラットの肝再生モデルを使い、ATPによるアロステリック阻害の程度から、M2型がどのくらい増えたかを明らかにするというものでした。まずラットを麻酔し、腹部を切開して肝臓を3分の2ほど切り取り、お腹を閉じます。約1週間飼い続けた後肝臓を調べるとほぼ元の大きさに戻っています。凍結保存しておいた再生前の肝臓と、再生後の肝臓をそれぞれすりつぶし、ATPの有り無しで基質濃度をいくつも変えて活性を測定しグラフを描きます。曲線の近似式と、L型、M2型それぞれのヒルの式から両者の比率が計算できるはずでした。しかし、結果は惨憺たるものでした。それもそのはず、当時の実習では、口で吸って操作するガラスピペットで試料や試薬を測り取るので、ピペット操作に不慣れな学生にはまともなデータが出せるわけがなかったのです。 実習終了後のある放課後、私は研究室に行き、お茶をいただきながら残念な思いを訴えました。するとある先生が「自分でやり直してみたらいいじゃない」と言いました。私はその罠にはまり、実験を始めました。先生たちとディスカッションをして、阻害の強さではなく抗体を作製して免疫学的にアイソザイムを区別することにしました。そのうち、当時話題になり始めたモノクローナル抗体を使ってみようということになりました。さらに、せっかく作るのだったらピルビン酸キナーゼではなく、教室のメインテーマであるオルニチン脱炭酸酵素(ODC)のモノクローナル抗体を作りませんか、という林伸一教授の一言によって、私は教室の研究に参加することになりました。授業と部活動以外の時間はほとんど研究室で過ごすほど研究に没頭したおかげで、学生のうちにODCに対するモノクローナル抗体を作製でき、それを使った酵素の親和性クロマトグラフィー精製を開発して、日本生化学会大会で口頭発表、Journal of Biochemistry誌に論文発表をすることができました。私のライフワークであるODCアンチザイムの研究もその延長上にあります。 医師になるつもりで入学した医学部で、おもしろさのあまり基礎研究にのめりこみ、気がつくと研究者、教育者を経て学長になっていました。今は自分で実験をする時間がないことだけが不満です。 【私の履歴書】
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