大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第55回*   (2019.12.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
研究医養成情報コーナートップページへ戻る 
今回は聖マリアンナ医科大学大学院医学研究科長 伊東文生先生です。
 「重すぎる研究課題」
                                  
                聖マリアンナ医科大学大学院医学研究科長 伊東 文生(消化器・肝臓内科教授)

        
  研究を始めた頃、海外の学会発表での1枚  
 研究を始めたころのお話しを書いてくださいということでした。そう聞いても、すでに30年以上の月日が経過しており、ずいぶんと記憶が風化しかかっているなあと思いながら、何とか記憶の糸をたぐってみようと思います。
 入局1年目(当時は臨床研修はありませんでした)で研究活動の手習い(お手伝い)はしたことがありましたが、本格的に研究活動を始めたのは入局4年目のことだったと思います。どういった研究テーマがあたるのかは、その時々に教室が抱えている研究テーマに沿ったものになるのは今も昔も同じだろうと思います。当時の研究室は教室員が比較的多いものであったため、あとに始めれば始めるほど研究テーマはシンプルなものからどんどん複雑化していくという宿命のようなものがあります。残念ながら先輩もたくさんおり、かつ同期のなかでも割と遅い研究開始だったために、私に与えられたテーマはその複雑化したもののひとつでありました。モノクローナル抗体全盛期でしたので、教室一丸で新規の抗体作成(特に腫瘍マーカーをねらったもの)を行う研究テーマでした。その内容ですがAという細胞には反応し、かつBという細胞にも反応し、しかしながらCという細胞には反応しないものを作るようにというものでした。これは今考えても非常に難儀なテーマでありまして、いつまでもスクリーニング実験を続けなければならないことになりました。抗体作成研究はスクリーニングが終わると、その抗体の特性チェックなどの他の実験系にどんどん移っていきます。周りで研究をしていた先生はどんどんこのフェーズに入っていくのですが、私の場合、いつまでもスクリーニングの目途が立たないため、代り映えのしない単一の実験を来る日も来る日もやらなければなりませんでした。同じ時期に研究を開始した人はみな他の実験系に移る中で、ただひとり取り残された感じを持ちながら文字通り来る日も来る日もで、とても報われた感じのない日々であったことを覚えています。何とかかんとか当初の予定した抗体ができたときには、達成感よりも疲労感におそわれ、ああもうこれ以上スクリーニングはしなくてもよいのだとほっとしたのをよく覚えています。
 何とかこの研究をまずまずの研究成果にまとめて一区切りをつけました。そのおよそ1年後に国立がんセンター(現在は国立がん研究センター)のリサーチレジデントになり国内留学の機会を得ました。このころは癌遺伝子研究の勃興期で、最先端研究ができるという喜びにわくわくした気持ちを抑えられませんでした。国立がん研究センターで与えられたテーマは全盛期の癌遺伝子研究のなかである癌遺伝子のプロモーター解析をするようにというものでした。塩基配列決定もこの当時の先端技術であった時代でしたので、多くの同僚は遺伝子変異の同定実験や遺伝子発現を検討する実験を行っていました。このころは遺伝子発現機構の解析にプロモーターの構造決定などは行われていましたが、遺伝子研究の初学者にはきわめてレベルの高い研究テーマでありました。まず、最初にゲノムの中で転写開始点を見出さないと次のレベルに進めないのですが、この研究でもここのところが大きな壁になりました。当時クローニングされた遺伝子は完全長ではなく、最初の部分が欠けていたため、最初の部分を見つけることが必須になります。2-3のアプローチはあるのですが、どれも大変難しい実験系でした。またしても来る日も来る日もがやってきました。教室で研究しているときは臨床に携わりながらでしたので、まだ臨床現場に出ていくと研究のことは忘れられたのですが、研究専念の立ち位置になると、精神的にも逃げ場がなく、やはりとてつもなく長い時間に感じながら、様々な試行錯誤を繰り返す日々でした。しかしながら、なんとかかんとか目途がたってきたころには、様々な実験系を試行錯誤した経験が生きてくるようになり、苦労した甲斐があったなと思うようになったものでした。大変得難い経験をさせていただいたものと現在でも感謝の念を持っております。
 その後、中堅の指導的立場になり、大学院生などの研究テーマを考えるような立場に身を置くようになってみると、ついつい複雑な研究系の計画を立てるようになってしまいました。自分では思うようにできなかったので、シンプルな計画にしてあげる方が良いのはわかっているのです。指導的立場に立ってみるとシンプル過ぎる計画は、すでに他の研究施設によって行われている可能性が高く、場合によっては論文発表ができなくなるリスクがあるということがようやく理解できるようになりました。複雑で困難な計画は、論文が必ずできるようにとの親心も入っていたのかと気づくのに随分と長い時間を要したと思います。これから研究を始める先生方は、困難な計画は親心もあるのだと、少しでもご理解いただければ幸いです。


【私の履歴書】
1983年 札幌医科大学卒業
札幌医科大学医学部内科学第一講座 研究生
1988年 国立がんセンター研究所発がん研究部 リサーチレジデント
1990年 国立がんセンター研究所生化学部 研究員
1992年 札幌慈啓会病院内科 医長
1993年 札幌医科大学医学部内科学第一講座 助手
1996年 札幌医科大学医学部内科学第一講座 講師
2003年 聖マリアンナ医科大学消化器・肝臓内科 教授