大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第61回*   (2020.12.25 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は大阪医科大学 学長 大槻 勝紀 先生です。
 「死んで花実が咲く細胞死
                                  
                            大阪医科大学 学長 大槻 勝紀

        
 
 

オーストラリア国立大学 免疫学教室での羊膝窩リンパ管穿刺の一コマ (1988年)

 
   
 高校生の時、テレビドラマ「孤島の太陽」を見て、医師として地域医療に貢献したいと思い医学部を受験した。私が医学部6年生の頃(40数年前)はストレート研修で、希望する科だけを研修するシステムであった。私は小児外科医志望であったが、本学には当時小児外科専門医がいなかったため思案に暮れていた。しばらくして友人が産科婦人科の研修医志望欄に私の名前を書いておいたと言われ驚いた。しかし考えてみると私は外科志望であり新生児を扱うのもよいかと思い、産科婦人科の研修医になった。入局2年目に上司からKruckenberg 腫瘍(胃原発の転移性卵巣がん)のリンパ行性転移の可能性について研究するように命じられた。Kruckenberg 腫瘍は症例数が少ないうえに、リンパ管は胸管を除いて肉眼では見えず、当時は電子顕微鏡で観察する以外に方法はなかった(現在では免疫組織化学で同定が可能)。リンパ管では木原卓三郎先生(京都大学出身)が世界でも第一人者で、その弟子の鈎スミ子先生が本学の第一解剖学教室教授であったので、大学院時代を解剖学教室で過ごし、女性生殖器リンパ管の電子顕微鏡研究に没頭していた。しかし当時はダイヤモンドナイフが高くて買えず、ガラス棒から超薄切片用のガラスナイフを作製したが、きれいな超薄切片を作製するのに苦労した。先輩から部屋の温度が下がると超薄切片ができると教えられ、夜中に教室のクーラーをかけて超薄切片を作成したのが思い出される。産婦人科学教室では当時留学する医師はまだ少なかったが、幸運にも鈎先生から大学院修了前に留学のお誘いをいただいた。但し帰国すれば2年間御礼奉公つきであったが、あまり後先考えず留学のお話を聞いただけで目の前が急に開けた気がした。当時リンパ管の研究で有名なオーストラリア国立大学免疫学教室のBede Morris教授の指導を受けることになった。その後、卵巣のリンパ管の微細構造と分布のテーマで無事に学位をいただいた。帰国後、助教、講師、准教授と職位を挙げていただいたが、臨床から離れていく寂しさと研究する喜びとで複雑な状態が続いた。その後、鈎先生をはじめ先輩諸氏の押されるままに、教授選に立候補し、鈎先生の跡を継ぐことになった。解剖学教室はリンパ管研究が盛んで、電子顕微鏡やレーザー顕微鏡を駆使して研究が行われ数々の業績を残していた。しかし私は産婦人科医であった故に女性生殖器の生理、特に女性ホルモン環境下での子宮や卵巣の機能や形態変化に興味を持ち、一生続ける研究テーマ選びに悩んでいた。

 子宮や卵巣のリンパ管を電顕観察していると、子宮でも卵巣でも臓器として最盛期にクロマチンの凝縮した変わった細胞が出現することに気づいていた。しかしどの教科書にも論文にもそのような細胞の記載はなかった。当時、月経は子宮内膜が剥脱壊死(ネクローシス)することにより生じると教科書には記載されていた。私は産婦人科医として月経中の患者さんを診ていると、血液所見でネクローシスに見られるWBC数やCRPの上昇はなく、また子宮内膜の組織標本でも子宮内膜にWBCの出現が観察されないことに疑問を抱いていた。その頃、Nature でアポトーシスの特集があり、その細胞がアポトーシスであることを知った。さらに幸運なことにアポトーシスの抑制遺伝子bcl-2の発見者である大阪大学遺伝子学教室辻本賀英先生からbcl-2蛋白の細胞内局在について共同研究の申し入れがあった。早速bcl-2蛋白の細胞内局在を免疫電顕で観察しその結果が辻本先生のWestern Blotの結果と一致し論文として掲載された。そこで疑問に思っていた月経の発来機序にbcl-2蛋白の発現が関与しているか否かを形態的、生化学的あるいは分子生物学的に検討した。bcl-2蛋白の発現が分泌期の子宮内膜で減少した時期に一致して典型的なアポトーシス細胞が出現することを明らかにした。アポトーシスは発生学のgenomic clock のように、細胞自身が死ぬべき時期を遺伝子的に定められており、子宮内膜細胞が死ぬことにより次の受精卵の着床に備えるといった「死んで花実が咲く細胞死」であると報告した。その後、卵巣での卵胞の選別や羊膜の破水機序にもアポトーシスが関与することを証明した。また組織が変わればアポトーシスを引き起こすシグナルにも特異性があること示した。


 このように自由な研究に携わることができたのも留学先での経験、共同研究が大いに役立ったことは言うまでもない。しかし、研究で一番大切なことは日常の臨床で疑問に思うことをどのようにしたら解決できるのかを日々悩み考え続けることが重要で、いつか急に扉が開かれるものである。

【私の履歴書】
1978年 3月 大阪医科大学医学部卒業
1980年 7月 大阪医科大学助手(産婦人科学)
1986年 3月  大阪医科大学大学院医学研究科修了 
1986年 4月 大阪医科大学助手(解剖学)
1986年 7月 大阪医科大学講師(解剖学)
1988年 2月 オーストラリア国立大学特別研究員
1989年 4月 大阪医科大学助教授(解剖学)
1991年 4月 大阪医科大学教授(解剖学)
2015年 6月 大阪医科大学学長(現在に至る)