大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第63回*   (2021.4.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は兵庫医科大学 学長 野口 光一 先生です。
 「痛み研究への道
                                  
                                兵庫医科大学 学長 野口 光一

        
 
  1991年 NIHのDr. dubnerの研究室メンバーと共に
(右端がラボチーフのDr. Dubner、左から2番目が筆者)
 
   

 私の高校3年生時、周囲の友人たちの多くが皆医学部を受験するのに心情的に反発し、当時は工学部の中では人気の高かった原子核工学科を受験、入学しました。京都における4年間は本当に楽しい学生生活であり、また原子核工学も学問としては非常に面白く充実した大学生活でした。しかしながら就職を考える頃になると原子力という学問が巨大サイエンスで、国家の意向で全て決まってしまい個人の努力や働きがいという点で疑問を持つようになり、それなら医師という個人の頑張りが結果に出やすい(当時はそう思いました)分野に出直しすることにしました。当時大阪大学医学部が導入したての学士入学試験を受験し、3学年次から医学部に編入学しました。
 1983年卒業後は整形外科教室に入局し、3年間臨床に携わりましたが、少しアカデミックな環境に身を置きたい、学位を取りたいという気持ちが高まり、大学院の件を整形外科の教授に相談すると、来年の大学院生枠は一杯で1年待つか、基礎で研究するかと聞かれました。待ちたくなかったために、整形外科の教授が脊髄の切片作成を習った神経解剖学の教室の大学院生になり、基礎研究生活がスタートしたのが1986年。学位取得後は臨床に戻る気で基礎に行ったわけですが、その神経解剖学の教室は若いMDや他学部出身者が多数集まって、とても活気があり極めて魅力的な環境で、本当に楽しく基礎研究に没頭できました。その最初のデータを持って初めての海外での学会発表が、1987年アメリカ New Orleansでの Society for Neuroscience Meeting(北米神経科学学会)。拙い英語でポスター発表をしていたら来てくれた一見立派そうな英国人、名札を見ると自分の実験で何回も読み返している多数の論文のラストオーサーをしているケンブリッジの大御所教授ではないか。たどたどしい議論の後、「Excellent  work!!」と言って握手をして去って行かれました。その当時はそれが単なる儀礼的挨拶とは思わず、心が打ち震えるほどの興奮を覚えたことを覚えています。それまでの人生で一番満足したというか、自分で考え自分で行った実験、そして自分で出した結果を評価される嬉しさ、楽しさ、喜びを知った瞬間でした。

 研究テーマは整形外科の患者さんの大半が訴える「痛み」のメカニズム解析です。これは現在まで35年間継続しており、難治性疼痛のメカニズムを解明することで治りにくい痛みに苦しむ患者さんを救う薬剤開発や治療法開発に貢献したい、という思いはずっと継続しています。3年で学位を取得させてもらい、1989年から米国メリーランド州の National Institute of Healthの Dr. Dubnerのラボに留学することになりました。Dr. DubnerはPain Researchでは世界のトップを走る研究者で、雑誌「Pain」のEditorを長年務め、米国疼痛学会や世界疼痛学会のリーダーとして著名な人物でした。そこでの2年間は疼痛メカニズムに関する基礎的論文を5本筆頭著者で出すことができただけでなく、多数訪れる世界中の疼痛研究者と知り合いになることが出来ました。これは極めて重要なことで、帰国後に基礎研究を継続しても、この世界でやっていけそうという漠然とした感覚を持てたような気がしました。一つのテーマをとことん突き詰めて研究を進めるためには、その分野の国際的なコミュニティーにしっかり入り込むことが重要です。その点でこの2年間の留学は大きな人生の分岐点でありました。

 アメリカ留学中に帰国後も基礎研究を続けようと心に決めて、1991年和歌山県立医科大学の解剖学教室に赴任。疼痛研究は継続して、1994年に現在の兵庫医科大学の解剖学教室に自分のラボを持つことが出来ました。それから27年間ひたすら研究面では疼痛基礎研究と、私立医大の医学教育に没頭してきました。幸い、多くの大学院生が教室での基礎研究に参加してくれており、40数名の医学博士学位を教室での研究で出せたことは素晴らしい成果だと感じています。一緒に頑張ってくれた共同研究者のお陰で、日本疼痛学会、日本運動器疼痛学会、さらに国際疼痛学会では多くの発表をすることが出来、それらの学会をリードする立場となりました。2016年には国際疼痛学会が初めて日本で開催されましたが、それに向けての誘致活動、学会開催の日本側責任者として必死に働き、学会成功に導くことが出来たことは、自分にとっての最高の思い出です。

 疼痛というものは、以前は単なる症状で研究する対象ではない、と考えられていた時代もありましたが、この20年で本当に重要な学問分野になってきました。「ヒトの痛みを癒す」は医療の根源的課題であり、神経系の可塑的変化との関係性、心理・精神的影響など現在の最新の医学的知識をもってしても解明できない多くの課題を抱えています。多数の臨床科横断的学問であるための難しさがありますが、今後とも日本の疼痛研究をしっかりリードし、さらに若手研究者の参入を図ることで、最終的には人類の痛みを癒す、幸福の実現のために努力していきたいと考えています。自分の場合は好きなこと、楽しいことを仕事に出来た、という幸運がありました。是非、若い世代の皆さんにも、研究を通じて好きな仕事を継続できる幸せを掴んで欲しい、と念願しています。

【私の履歴書】 
1979年 3月 京都大学工学部原子核工学科卒業
1983年 3月 大阪大学医学部卒業
1983年 5月 大阪大学医学部附属病院 研修医(整形外科)
1984年 7月 市立伊丹病院整形外科医員
1985年 7月 関西労災病院整形外科医員
1989年 5月 大阪大学大学院医学研究科修了、医学博士(大阪大学)
1989年 6月 大阪大学医学部 第2解剖 助手
1989年 8月 米国国立衛生研究所交換研究員(NIH Visiting Fellow)
1991年 9月 和歌山県立医科大学 第2解剖 助教授
1994年 4月 兵庫医科大学 第2解剖 教授
2007年 4月 兵庫医科大学 教務部長 
2007年 4月  学校法人兵庫医科大学 評議員 
2009年 4月  学校法人兵庫医科大学 理事 
2015年 4月  兵庫医科大学 入試センター長 
2016年 4月  兵庫医科大学 学長 
 現在、日本疼痛学会理事長、日本痛み関連学会連合代表