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医師は診療に専念し臨床医として生涯を送ることもできますし、基礎研究に没頭することも可能です。その中で、一定期間にしても“研究”を行い研究医として過ごすことは、その後の医師人生を限りなく豊かにしてくれます。多くの尊敬しうる方々との知己を得、終生続く学恩に浴することできます。人生に多くの選択肢と自由度与えてくれる”研究“経験を持つことは、医師の特権ではないでしょうか。
1980年代の医学部卒業生にとって、卒後一定期間“研究”に従事し、いずれは学位を取得する、このキャリアパスはいわばデフォルトでした。3年間、第一線病院での内科臨床研修を終え、大学病院で2年間、病棟主治医として勤務しました。この間に研究グループ配属も決まりました。病棟勤務後に深夜まで実験の手ほどきを受けるという日々を送っていました。その頃、研究グループの先輩であった槇野博史先生(現岡山大学学長)が米国留学から帰国されました。当時、腎臓分野の最重要課題のひとつが、糸球体の濾過メカニズムの解明でした。基底膜に存在するプロテオグリカンがこれに重要な役割を果たしていることが判明し脚光を浴びていました。これを発見したのが、シカゴの新新気鋭の腎病理学者であるYashpal
Kanwar教授でした。槇野先生はその発見に大きく貢献されました。後任として、なぜか私が選ばれました。当時29歳で、学位取得前で研究技術の修得も不十分であり、
いわば“学徒動員”です。しかしいずれは海外留学に行きたいという希望をもっており、時期尚早ではありましたが渡米いたしました。
オヘア空港までKanwar先生ご自身に出迎えていただきました。12月のシカゴは、マイナス20℃の厳寒期です。ダウンタウンに近づくと夜空に輝く高層ビル群が眼前に広がります。40年以上前に目にしたskyscraperを今でも鮮明に記憶しています。
生理学と形態学が主体であった腎臓研究に分子生物学が導入される黎明期でした。Kanwar研究室の中心テーマは、ヘパラン硫酸プロテオグリカン(HS-PG)のコア蛋白のcDNAクローニングでした。PCR法が普及する以前の時代です。λファージベクターを用いてcDNAライブラリーを作製、抗体により
cDNA ライブラリーをスクリーニングするという古典的な方法がとられました。このプロジェクトは困難を極めました。2年経過したころ、カリフォルニアの別グループに先を越されてしました。落胆は大きかったのですが、この間にprotein
chemistryを学ぶことができました。3年を経過した時点で貯金は底を尽きました。6歳と4歳の子供の顔を眺めるうちに、帰国を決意しました。Kanwar先生からは強く慰留されましたが、クローニング競争も結着し、転機と考えました。結局別プロジェクトでPNAS誌を始め、筆頭著者として3本の論文を発表しました。
帰国後も分子生物学を学びたいと強く願っていました。帰国の前年に岡山大学の分子医化学講座が開催され、初代教授に二宮善文先生がHarvard大学から着任されました。二宮先生はマトリックス研究分野の世界の第一任者のおひとりでした。運良く、帰国後に研究生として二宮先生のご指導を得ることができました。吉岡秀克先生(後に大分大学医学部長にご就任)に実際にご指導いただき、IV型コラーゲンのα4鎖のクローニングプロジェクトに参画できました。
ここまでが研究医としての修行時代であったと思います。その後、母教室へ戻り、最初は少人数ながら研究グループを構成し、本来の希望であった腎臓研究への分子生物学的解析技術の導入に取り組むことになりました。
Molecular biologyへの渇望、憧憬を口にする私に対して、二人の恩師から同じことをお教えくださいました。入局時の主任教授であった太田善介先生(岡山大学名誉教授)は、「山を測る場合と樹木の高さを計測する物差しは異なる」と教えられ、Kanwar先生は「大切なことは技術ではなく、Biologyだよ」と諭されました。
以来40年間、“研究医”として歩んできました。大きな成果、偉業を遂げたわけでもありません。ごく普通の研究医でした。
ベーシックな生命科学者を除けば、多くの医学研究者の最終的なゴールは疾病を克服することにあろうかと思います。診断薬や治療方法の開発ということになりますが、そのためには多くの研究者、開発者の膨大な営みと長い年月を必要とする、我々はごく一部を担うにしか過ぎない、というのが実相でしょう。疾病克服を目標に設定すれば、我々の研究はすべて未完に終わります。同時に、それは決して無意味ではないと感じています。研究活動は漸進的かつ螺旋状にしか進み得ません。すべての研究に先行する研究者がおり、先行研究を引き継ぐ形でしか先へ進んで行けない。我々は引く継ぐ手と受け渡す手を持つ、鎖のひとつとも言えましょう。これは長大な物語を読む行為にも似ています。ある者は数頁、数行かも知れません。後継者がその先を読み進んで行く。読了はいつになるかわからず、誰一人として最初から最後まで読み終える者はいません。
良い書物であれば、たとえ数行であっても、そこには箴言や深い洞察が述べられ、読むことに喜びと感動を得ることができます。研究はすべて未完に終わります。連鎖であるが故に、未完であることが必然とも言えます。
研究と診療は二律背反的に捉えられることもあります。多くの研究医との出会いを通じて、実際は、良き研究者は良き教育者であり、優れた臨床医たり得ると確信するに到りました。
今後の医療、医学の展望について、予測は困難です。強いものではなく、変化しうるものが生き残る、これは真実であるように思えます。研究経験で培われる洞察力、英知が今後、一層求められるように考えています。
【私の履歴書】 |
昭和57年 |
岡山大学医学部医学科 卒業 |
昭和57年 |
国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科 |
昭和62年 |
米国Northwestern大学医学部 research associate(~平成2年) |
平成3年 |
岡山大学医学部第三内科 助手 |
平成7年 |
岡山大学医学部第三内科 講師 |
平成9年 |
岡山大学医学部第三内科 助教授 |
平成10年 |
川崎医科大学 腎臓・高血圧内科学講座 主任教授 |
平成16年 |
川崎医科大学 臨床教育研修センター センター長 併任 |
平成19年 |
英国Oxford University, Visiting Fewllow |
平成21年 |
川崎医科大学 副学長(研究、大学院、国際交流担当) 併任 |
現在
一般社団法人日本腎臓学会 理事長
NPO法人日本腎臓病協会 理事長
高血圧学会 理事、 心血管内分泌代謝学会 理事、 アジア太平洋腎臓学会 理事
腎臓リハビリテーション学会 理事
内科学会評議員
日本医学術会議連携会員 |
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