大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第7回*   (H24.5.21 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は山梨大学医学部長 有田 順 先生です。
  『駆け出しの頃』

      
                           山梨大学医学部長 有田  順 (生理学分野教授) 
        

1977年、先輩の先生とともに

 私が学部学生の頃は、3年次から解剖、生理、生化学の基礎医学の科目が始まりました。今も昔も医学の専門科目の勉強を始める年に学生は厳しい教育の洗礼を受けるため、私達はこの学年を「地獄の学1」と呼んでいました。地獄のあとの「花の学2」の頃から、私は生理学の研究室に出入りを始めました。理由は、単に前年に勉強した生理学の知識に薄っぺらさを感じただけのことでした。当時の横浜市立大学の生理学の教授は、麻布中学を中退され、戦時期に短い期間存在した中国黒竜江省(満州の最北端、ソ満国境の地です)佳木斯(ジャムス)医科大学を卒業され、しかし39歳という若さで教授になられた川上正澄先生でした。まさしく、異端児。言動もバンカラ、姿も仰天、夏は研究室の中を頭に濡れタオルを乗せステテコ姿でうろうろ。そして研究室は梁山泊の館の世界。教授の魅力に惹かれて、私より10年以上もの先輩を筆頭に、下は1年先輩まで、ぞろぞろ。食客もごろごろ。そこには研究の雰囲気というものより共同生活の臭いが覆っていました。私は講師の先生の指導のもとに「ストレス反応の適応性獲得」に関する実験を約2年間にわたって行いました。学部学生が課外時間を使って行うような実験でしたので、論文になるような結果を集めることはできませんでした。この時は研究に対する興味を持っていたというより、むしろ研究者という職業、研究というエキサイティングなもので飯が食っていけるという職業に憧れをもっていました。当時も卒業後基礎医学の大学院生になる学生はほとんどいませんでしたが、6年次になった頃、臨床医よりもまず基礎研究者を目指すという決心が意外と容易に出来たように記憶しています。皆が臨床に行くなら俺は基礎という反骨精神といったものも心の底にあったのかもしれません。指導して戴いた講師の先生も、女性一人で米国へ永住覚悟で留学のため米国へ旅立たれたことも私の背中を押してくれたのかもしれません(その後、その先生はウィスコンシン大学の美学の教授と結婚され、現在もグラントを取って研究を続けておられます)。
 人生におけるターニングポイントを挙げるとしたら、私の場合、基礎医学大学院入学と結婚であり、しかも、この二つが同時に訪れたことに運命を感じます。結婚してすぐに子供もできたため、大学院生時代のほとんど、家内の実家の小田原から大学のある横浜まで1時間40分の遠距離通学をしていました。当時の研究室のメインテーマは生殖生理学、特に女性ホルモンがいかにして脳に作用するかに関する、ネズミを使った電気生理学的研究が主なものでした。学部学生から大学院生になった途端、自分に対する教授の態度が微妙に変わったことに軽い失意を味わい、また、自分に対する教授の期待が確しかなものであることに小さな戦慄を感じました。川上教授の方針は、教授と中堅が大学院生を研究指導するという体制ではなく、大学院生といえども教授と1対1で研究を行っていくというものでした。しかも、川上教授は、所謂放任主義かつ業績主義でした。すると実力ある中堅教員はまさしく伸び伸びと研究が出来るわけですが、当然、院生は路頭に迷うことになります。「教育とは適切なる助言なり」と思っていた私に、教授は「有田さん、結果はどうやね。下手な考え休むに似たり。とにかく、実験や実験や」というだけ。実験をやらなければならないにも関わらずアイデアがない。アイデアといったものが、電球が点くように湧いてくるものは少なく、多くの場合、知識と思考の蓄積の所産であることを考えれば、入学したての院生がアイデアを出すことは至難の業。教授からアイデアが降ってくるというのは全くないので、アイデアを求めて、院生のにわか勉強で実験を企画しなければなりませんでした。遠距離の電車通学の時間は論文を読むのに集中し、また実験企画を検討する貴重な時間でした。研究室ではただひたすら実験。しかし、上手な鉄砲を数打ってもなかなか当たらないのがこの世界、ましてや下手な鉄砲なら玉の無駄射ち。自信作の企画を実行しても実験結果で取っ掛かりを掴むことができない。院生時代の前半の2年間はこの繰り返しでした。異なるアイデアの二つの実験を同時に行う、「二股」もこの頃から身につけたものでした。私の研究者生活の中で一番辛い時代でした。反骨精神も挫けそうになりました。自分が研究者としての資質や適性を持っているのだろうかという疑問、自分は将来研究で家族を養っていけるのだろうかという生活不安、同級生は臨床で着実に実力を養っているのにという孤独。当時、娘と夫婦で熱海梅園に行ったことがありました。この時に梅園で焼いた楽焼の灰皿がつい最近まで家に残っていました。私がこの楽焼に書いていた歌、
「紅梅の寒さ厳しく1分咲き、春待つ蕾、固く陽を浴び」
下手で気障な、人生で最初で最後の歌でした。
 院生時代も後半になると、諦めと開き直りが芽生え始め、しかし、不思議とそれに伴い、実験結果も出るようになりました。独り立ち、これを川上先生はいつも願っておられたのかもしれません。駆け出しの頃、潰れそうになる私を支えてくれたもの、それは先輩の姿でした。川上研究室には数多くの先輩がおられました。この先輩の方々の中から最終的に全国の生理学教室の教授になられた方が10名にも及ぶことになりました。私がこの数をもって誇りたいのは、川上研究室の研究アクティビティではなく、人が育つ環境の豊かさです。私自身が幸運だったと思うのは、時を追うように、将来の自分を間近に見ることができたということです。院生の自分が3年後には、あるいは10年後にはどうなるのだろうか。これに解を与えてくれたのが3年先輩であり10年先輩であり、彼らの研究と生活の姿を見ることにより将来の自分を確信することができました。

(山梨大学医学部ホームページhttp://www.med.yamanashi.ac.jp/index.html『今月のプロフェッサー』から転載)

【私の履歴書】 

1975年 横浜市立大学医学部卒業
1979年 横浜市立大学大学院医学研究科修了 
1979年  横浜市立大学医学部生理学第2講座助手 
1981~1983年  テキサス大学ダラス校医学部留学
1989年 横浜市立大学医学部生理学第2講座助教授
1993年 山梨医科大学生理学講座第1教室教授
2009年 山梨大学大学院医学工学総合研究部長及び医学部長