大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第8回*   (H24.6.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は名古屋大学医学部長 髙橋 雅英 先生です。
  『ヒトがん遺伝子研究の夜明け』

      
                        名古屋大学大学院医学系研究科長・医学部長 髙橋 雅英
        


ハーバード大学の中庭で長女とくつろぎのひととき(1983年)

 小学生の頃から、家族や親せきで‘がん’を患う人が多く身近に接する機会が多かったため、がんに対する恐怖感がなんとなく植えつけられてきた。しかし医学部に入学し、いろいろな分野を目にすると当然のことであるが何を専門にするか大いに迷うことになり、どちらかというと臨床より研究に対する興味が強かったため、選択肢が多そうな病理学教室の大学院に入ることにした。

 実験病理を柱にする教室は今でもそうであるが、がん研究をテーマにする教室が多く、私の所属した名古屋大学医学部病理学第2講座もその1つであった。当時のがん研究は実験動物を用いた化学発がんあるいはウイルス発がんの研究が盛んであり、私の所属した教室もマウス乳がんウィルスの研究を行っていた。しかし研究を進めながら、ヒト発がんのメカニズムを目指す研究とのギャップを感じ、新たな研究の方向性を模索していた。そのような折に、アメリカでヒトのがん化に関わる遺伝子(RAS遺伝子)の同定に初めて成功したという新聞報道に接し、アメリカに留学し、ぜひがん遺伝子研究の世界に飛び込みたいという気持ちが抑えられなくなった。幸い、ヒトがん遺伝子研究の先頭を走っていたHarvard大学Dana-Farber癌研究所のGeoffrey Cooper博士と親交のあった愛知県がんセンターの坂倉照妤先生に紹介状を書いてもらい、留学が実現した。今から約30年前の1983年のことである。

 留学した当時は、アメリカの研究室と日本の研究室の設備を含めた研究環境には圧倒的な差があった。1つの例として、名古屋大学では1台のディープフリーザーを2-3の教室が共用で使用している時代であった。Cooper研究室は、Cooper先生以外は30歳前後の10名程度のポスドクがおり、当時のアメリカの研究室としては平均的な規模であったと思う。私自身は御多分にもれず英語にはかなり苦労し、研究もなかなか進まず精神的にかなり厳しい時期もあったが、研究費を心配せず、100%研究に打ち込める環境は得難いものであった。Cooper研究室で見つけたがん遺伝子が未知の新しい遺伝子(RETと名づける)であることが分かった時、そしてその遺伝子断片を最初にクローニングできた時は本当にうれしかった。新しいがん遺伝子を発見する幸運をもたらした1つの理由として、短い期間ではあったが大学院時代に受けたがん細胞の形態学的なトレーニングにあると思っている。がん遺伝子研究に必須の材料であったNIH3T3細胞ががん化したかどうかの判断に、形態学のトレーニングの経験が大いに役立った。研究に何らかの貢献できる知識といえば、わずかな形態学の知識しかなく、分子生物学的な実験の手ほどきを一度も受けたことない私を受け入れてくれたCooper先生に感謝する一方、今から考えると遺伝子研究に関する何の基礎知識を持ち合わせない時期の大変無謀な留学だったような気がする。1985年までの2年9か月の留学生活であったが、分子生物学の多くの知識と技術を習得でき、「Cell」誌に論文を発表できたことは、私の研究人生のまさに大きな一歩となった。

 RET遺伝子の研究はCooper研究室では継続しないということで、私が日本に帰国後、愛知県がんセンターで本格的に進めることになった。RETはNIH3T3細胞へのトランスフェクションの過程で人工的に他の遺伝子と組み換えを生じ、がん遺伝子として活性化された遺伝子であったため、そのヒトがん発生のおける意義が明らかでなく、発表当時は大きな関心を持たれなかった。愛知県がんセンター研究所では(1990年3月まで在職)、cDNAクローニングによるRETの全遺伝子構造の決定、抗体の作製と遺伝子産物の同定、生体内での発現解析などその後展開する生物学的機能を明らかにするために必要な基礎的研究を進めていった。そうこうするうちに、欧米のグループより甲状腺がんでRETの遺伝子再構成が実際に検出できること(Cell,1990年)、遺伝性腫瘍の代表的な疾患の1つである多発性内分泌腫瘍2型の原因遺伝子であること(Nature, 1993年、1994年)、さらに腸管神経系の発生異常で起きるヒルシュスプルング病の原因遺伝子であること(Nature, 1994年)、ノックアウトマウスなど遺伝子組み換えマウスを用いた解析により腸管神経系や腎臓の発生、精子形成に必須の遺伝子であることなど(Nature, 1994年、Science, 2000年)次々と驚くべき重要な発表がなされ、最も注目されるがん関連遺伝子の1つとなった。この予想をはるかに超える研究の展開の中で、多くの国際学会に招待され、世界の研究者と知り合うことができたことは大きな財産になった。

 時々、無謀だったとも思える海外留学をしなかったらどんな人生送っていただろうかとふと思うことがある。研究ではしばしば先の見えない苦しい時期が長く続くが、その苦しみが大きいほど乗り越えられた時の喜びも大きいものである。そのような経験を味わうと研究の道から抜け出せなくなる。アメリカでの留学生活はまさにそのような経験であった。近年、日本とアメリカでハードの研究設備の面で遜色ない環境になっている。旅行では海外にも気軽に行ける時代になり、留学の重要性は何かと問われれば、「研究人生を豊かにする人との出会い」だと答える。若い人は大きな夢を抱き、将来世界のどこかで独自の美しい研究の花を咲かせてほしいと思っている。

【私の履歴書】 

1979年 名古屋大学医学部卒業
1983年 名古屋大学大学院医学研究科修了 
1983年  米国ハーバード大学医学部、Dana-Farber癌研究所
Research Fellow
 
1985年  愛知県がんセンター研究所研究員
1990年 名古屋大学医学部病理学第2講座助手
1995年 名古屋大学医学部病理学第2講座助教授
1996年 名古屋大学医学部病理学第2講座教授
2000年 名古屋大学大学院医学系研究科教授
2003年 名古屋大学大学院医学系研究科附属神経疾患・腫瘍分子医学研究センター・センター長
2012年 名古屋大学大学院医学系研究科長・医学部長