大学の教授が研究医として歩みだした頃のことを回顧します。
*第9回*   (H24.7.26 UP)  前回までの掲載はこちらから
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今回は大阪大学大学院医学系研究科長・医学部長 米田 悦啓 先生です。
  『出会いを大切にして』

      
     大阪大学大学院医学系研究科長・医学部長 米田 悦啓 (生化学・分子生物学教授) 
        

ノーベル賞受賞者ミルシュタイン博士と箕面公園にサルの生態見学(後列左から4番目が筆者)
 私は、高校時代、医学部を目指して勉強をしていた時、ある意味当然ですが、医者になることができたら、どのような道に進もうかと考えていました。その当時も僻地医療の問題などが報道されていましたし、がん患者の増加が大きな社会問題となり、がんを何とかして治さないといけないといった議論なども活発にされていました。一人の医師が二つ以上のことをすることはできません。そのような中、「医師になって、研究をして、原因不明の病気、治療法のない病気を何とかできればいいなあ」と漠然と希望していました。医学部に入学後もその気持ちは全く変わりませんでした。ただ、ごく平凡な学生だった私は、どのようにしたら研究ができるのかわからず、また、自分がどのような研究をしたいのかも思いつかないため、積極的にどこかの研究室の門をたたくといったこともせず、同級生と一緒に講義を受けて、家に帰るという毎日を送っていました。
 2年生の時だったと思います。いつもの通り、家に帰ってテレビを見ていました。NHKのドキュメンタリー番組で大阪大学の研究室が紹介されるというだけの理由でその番組を見たと思います。紹介されたのは、細胞融合現象を世界で初めて発見された、今は亡き岡田善雄先生の研究室の研究風景でした。私はその時初めて、顕微鏡下で、生きている細胞がキラキラ輝きながら、動き回ったり、分裂したり、ウイルスで融合したりする様子を見ました。ただただ感動しました。こんな研究ができるのだと。それまで、私は、研究と言えば、試験管を振って何か反応させるとか、マウスを飼育して行動を観察するといったイメージしか持っていませんでした。そして、こんな研究がしてみたいと直感的に思いました。
 当時、岡田先生の研究室は吹田キャンパスの微生物病研究所にあり、私は、豊中キャンパスや中之島キャンパスに通う学生でしたので、キャンパスの離れた研究室にすぐにお邪魔するという発想にはなりませんでした。ただ、医学部の必須カリキュラムの1つである基礎医学講座配属(いわゆる基礎配)の時は、必ず岡田先生の研究室を選択しようとその時決心しました。そして、4年生の後半、3人の同級生といっしょに岡田先生の研究室での研究を経験しました。経験したと言いましても、われわれ学生の知識は乏しく、技術的に何かを習得していたわけでもありませんので、踏み込んだ研究というのはとても無理でした。しかし、岡田先生の研究室の雰囲気を味わってみて、それぞれの研究者が、世界に向けて何かを発信していきたいという強い意志を持って、とても楽しそうに毎日研究をされているのがとてもよく伝わってきました。基礎配の3か月が終わり、強く思うようになりました。岡田先生の研究室で将来は研究したいと。

 当時のカリキュラムでは、基礎配が終わりますと、本格的に臨床の講義や実習に突入していきます。やはり、医師になるために医学部に入学した私は、実際の病気や患者さんを前にして、臨床にのめりこんで行きました。中之島にある附属病院での講義や実習が中心ですので、吹田キャンパスに行くこともほとんどなくなりました。そのような時、4月からは最終学年になり、今年は国家試験の勉強もしないといけないなあと思っていたお正月に、思いがけず、岡田先生から年賀状が届きました。基礎配を終える時、お世話になったお礼を申し上げると同時に、将来は基礎医学の研究をしてみたいと思っているということを私が話したのを憶えておられ、「研究室が新しくなるので、一度遊びに来ませんか」という内容の言葉が添えられていました。その後、何度ぐらい実際に研究室に伺ったか、よく憶えておりませんが、臨床研修に進むことなく、卒業後すぐに大学院に進む決心をし、6年生の夏休みに研究室に伺い、大学院生として岡田先生の研究室でお世話になりたい旨を伝えました。

 この決心に至るまでは、かなり悩みました。自分は基礎医学研究者として生きていけるだろうか、研究者に向いているのだろうか、臨床に進んでから病気(具体的には白血病に興味を持っていました)を対象にして研究をしてもいいのではないだろうか、臨床に進まなかったことを後悔しないだろうか、などなど。もちろん、岡田先生ともいろいろとご相談しました。今から思えば無理難題の質問、「私は研究者としてやっていけるでしょうか」と聞いたりもしました。しかし、最終決断をして、その気持ちを岡田先生にお伝えしてからは、全く気持ちが揺らぐことはありませんでした。その決断をした最大の理由は、岡田先生との出会いを大切にしようという気持ちからでした。人生で人は多くの出会いを経験します。しかし、自身の人生に大きな影響を及ぼす出会いはそれほど多くはないと思います。私は、岡田先生との出会いこそ、医学部学生時代の最も大切な宝物である、そのように感じることができる出会いを大切にして生きるのも1つの人生だろうと思ったのです。その判断に間違いがなかったと今でも思っています。

     
   学会での懇親会(左が岡田先生、右隣が筆者)  岡田先生喜寿(左が筆者、中央が岡田先生)


【私の履歴書】 

昭和50年4月 大阪大学医学部入学
昭和56年3月 大阪大学医学部卒業 
昭和56年4月  大阪大学大学院医学研究科入学 
昭和60年3月  大阪大学大学院医学研究科修了(医学博士号取得)
昭和60年4月 大阪大学細胞工学センター研究生
昭和61年1月 大阪大学細胞工学センター助手
平成3年9月 大阪大学細胞工学センター助教授
平成4年12月 大阪大学細胞生体工学センター教授 
平成5年2月 大阪大学医学部解剖学第3講座教授 
平成11年4月 大阪大学大学院医学系研究科機能形態学講座教授
平成14年4月 大阪大学大学院生命機能研究科細胞ネットワーク講座教授(~現在)
  大阪大学大学院医学系研究科解剖学講座教授(兼任)(~平成19年12月まで) 
平成20年1月 大阪大学大学院医学系研究科生化学・分子生物学講座教授(兼任)(~現在)
平成23年4月 大阪大学大学院医学系研究科長・医学部長(~現在)